上場を維持するコストと上場を廃止するコスト

先日「会社は何故非公開化するのか」というエントリーで「買収の対象となる会社側に非公開化する積極的な理由があることは極めて稀で、どちらかというと買収する側の都合でそうならざるを得ないことの方が圧倒的に多い」という旨を書いたところ、上場維持に係るコストはそれなりに大きく、それを削減する狙いは少なからずあるだろうという指摘*1を複数いただいたので、今日はその話。

結論から言うと、上場するのも上場廃止するのも結構な負担であって、そもそもなんで上場なんてしてしまったのという話ではある。

上場を維持するコスト

さて、株式の上場を維持するためには確かに大きなコストがかかる。取引所からは適時開示を求められ、四半期ごとに決算を絞めて45日以内に開示しなくてはならなかったり、株価形成に影響がありそうな事実が発覚した場合などは即時公表しなくてはならなかったりと何かと忙しいことこの上ない。さらに、金融庁による開示規制も年々強化されており、今では四半期に1回有価証券報告書のようなものを提出しなくてはならない。その他にも臨時報告書や有価証券届出書など書類作成は極めて煩雑であるし、書類提出の手続きも何故かフォーマットをHTMLに変換しなくてはならなかったり、ブラウザのバージョンを落とさなくてはならなかったりと複雑怪奇なわけである。

こうした開示義務に対応するため、会社としては経験者の確保やシステムへの投資を避けて通ることはできない。これらの整備に要する額は、当然会社の規模によってマチマチだが、どんなに少なく見積もっても年間1億円は下らないのではなかろうか。

一方で、会社が上場していることによって会社が得られるメリットというのは限定的ではある。新株発行で資金調達と言ってもそうしょっちゅうできるわけではないというか、ほとんどの企業は上場時の一度きりだし、上場によって社会的な信用が補完されることを期待する経営者は多いが、今日び単に上場しただけで信用が得られるほど世の中は甘くない。

であるから、いっそのこと上場廃止したい、株式を非公開化したいと考える会社が存在すること自体は、十分に理解できるものである。一方で、話はそう単純でもないのではないか、とも思う。

上場を廃止するコスト

上記のようなコストを単に削減できるのであれば、上場廃止は確かに会社にとっても”いい話”となり得る。ただ、上場を廃止するためにも相応の負担はあるという点を忘れてはならない。MBO*2などによって上場を廃止しようと思うと、ざっと思いつく限りでも会社には概ね以下のような負担が発生すると考えられる。

  1. アドバイザリー手数料
  2. LBOの元利金返済
  3. フィナンシャル・コベナンツ対応
  4. 再上場の可能性

以下で順番に説明しよう。

1.アドバイザリー手数料

詳細は後述するが、一旦上場した株式を非上場化するというのは、少数株主保護の観点から言えば必ずしも褒められたものではなく、先のエントリーにおいても「MBOというと常になんとなくキナ臭い感じになる」と申し上げた通り、MBOは訴訟リスクとは切っても切れない関係にある。こうしたリスクに対処するため、弁護士などのリーガル・アドバイザーや投資銀行などのフィナンシャル・アドバイザーとの間で、法的な問題点や買収価額について、綿密に対策を講じる必要がある。当然そこには莫大なコスト負担が生じる。
ざっと見積もって20億〜30億円程度の手頃な感じのMBO案件でも、何だかんだで1億円くらいの手数料は覚悟する必要があるだろう。ちなみに、案件の規模が大きくなれば、手数料額も増える。

2.LBOの元利金返済

こちらについても先のエントリーで説明した通りではあるが、MBOで非公開化しようと思うと、スキームは基本的にLBO*3になる。
借入コストと資本コストを比べると、実は資本コストの方が高いというのが現代ファイナンス理論における常識で、その意味では借入を増やして自己資本を減らせば全体でみたときの資本コストは実質的には下がるのだが、とはいえ借入は自己資本と異なり元金の返済を要する。元金の返済をコストとは言わないが、キャッシュフロー的には大きな負担となることは間違いない。財務キャッシュフローの負担が増えると、投資キャッシュフローを減らさざるを得ず、つまるところ設備投資や研究開発が削られることとなる。これらの削減が将来の企業価値にとってマイナスの効果を持ち得ることは言うまでもないだろう。

3.フィナンシャル・コベナンツ対応

LBOの恐ろしいところは元利金の返済による負担だけではない。LBOにおける貸付けは、ある特定の資産の担保価値に依拠するものではなく、会社のキャッシュフローを裏付けとして実行されるものである。当然、リスクの性質としては担保資産の方が静的であるのに対し、事業キャッシュフローの方は動的だから、LBOにおいては、資金提供者が会社をモニタリングする目的で多種多様なフィナンシャル・コベナンツ*4が設定される。例えばフリーキャッシュフローに対する元利払いの割合を一定以下に保たねばならないとか、純資産をいくら以上に保持しなくてはならないとか、勝手に借入をするなとか、配当は絶対するなとかいった具合である。そしてこれらのトリガーにヒットすると、最悪の場合、会社は多額の負債に関して期限の利益を失い、デフォルトさせられてしまう。こうした各種のコベナンツに対処するためのオペレーション上の負担は、上場時における開示義務に匹敵するか、むしろそれを上回るものであると言える。

4.再上場の可能性

極めつけはこちらで、株式を非公開化する際にPEファンド*5をスポンサーとした場合、少なくないファンドが自らがイグジットするために会社に対して株式の再上場を求めるから、その場合は上場に耐え得る管理体制を保持しなくてはならないということになる。何のことはない、元の黙阿弥である。再上場はしないという方針であったとしても、ファンドがイグジットしなくてはならないことに変わりはなく、上場以外のイグジット手法というと基本的には第三者への転売ということになる。転売先が非上場会社であるということは極めて稀で大体は上場会社に転売されることになるが、上場会社の子会社が対応する必要がある開示義務は、基本的に上場会社のそれと大差ない。


さて、上記のうち2〜4は、他人から資金の提供を受けるからこそ発生する負担であるから、自己資金でMBOすることで回避できるが、自社を買収できるほどの潤沢な資金を経営者が有しているケースというのは、ここで論ずるだけの価値が見いだせない程度にレアである。通常は銀行などからの借入を活用せざるを得ないことが大半で、多くの場合はそれでも足りず、更にファンドなどからエクイティ性資金が調達されることになる。

そもそもなんで上場したのという話

冒頭でも触れたとおり、そもそも単にコストが高いからと言って徒に上場を廃止するというのは、少なくとも個人投資家保護の観点から言えば、決して望ましいものではない。

株式の上場と同時に新株を発行し公募によって大勢の投資家に株式を販売することをIPO(Initial Public Offering)と言うが、IPOで株を売るときの重要な前提条件は、その株はこれから上場するからもし売りたくなったら市場で売れますよということだ。買ったら一生保有し続けなければならない株を買う人は少ない。いざという時に換金できるだけの流動性があるということは、投資家にとって何にも換え難いほどの大きな価値である。

その貴重な流動性をなくしてしまうのが株式の非公開化であるから、少数株主にとっては一大事である。よくTOBをすると、個人株主から「TOBに応募せず会社が非上場化したら自分の株は紙くずになってしまうのか」という問い合わせがある。実際は単に流動性がなくなるだけだが、たったそれだけのことが極めてクリティカルな事象であるということを物語っていると言えるだろう。

であるから、会社が株式を非公開化するにあたっては、すべての株主に対して保有株を売却する機会を与える必要がある。しかも相応の金額でだ。この相応の金額というのが実に厄介なのだ。要するに株式の価値というのはそれを評価する人が会社に対してどれだけ期待しているかに大きく依存するから、どれだけ金額の適正性を担保したところで、その金額に不満を感じる人は必ずいることになる。それを経営陣の勝手な言い分で巻き上げてしまおうというのは決して行儀のよろしい話ではなく、いくらアドバイザリー手数料を費やしたところで完全にクリアになる類の問題ではない。

【個人株主からすれば、万が一自分だけが売りそびれれば株式が非上場化し、自分の持っている株式が紙くず同然になってしまうという恐怖があるから、大抵の人は経営陣からTOBがかかれば応募するか、若しくは市場で売却してしまう。金額に強い不満を抱いた場合は、一応少数株主保護施策として株式の買取請求権なりの最低限の権利が法的に担保されているが、基本的には裁判をすることになるため、弁護士費用は嵩むし、そもそも「適正な株価」について争わなければならないわけだから、それなりにキチンとした価格算定を行わねばならない。常識的に考えて個人株主がこのような費用に耐え得るはずもなく、チンピラ系の弁護士なりが音頭を取って集団訴訟を行うケース以外は、泣き寝入りとならざるを得ない。集団訴訟を行うケースについても、要はチンピラ系の弁護士が日銭を稼ぐという裏のテーマがあるわけで、果たして本当に個人株主は保護されているのかという疑念は尽きない。】*6

私は別に会社の非公開化に反対というわけではないというかむしろ、仕事上はトランザクションが増えてくれた方が有難かったりもするのだが、安易な非公開化を見るにつけ、経営者の資質を疑いたくはなる。

決して小さくない負担を背負ってまで上場廃止を選択するならばそもそも何故上場したのという話で、結局は何も考えてないのではないのという話である。

追記

ここまで行くと、逆に清々しい。もはや株の売買で利ザヤを稼ぐディーラーと一緒。しかも自分が経営する会社であればインサイダー情報も活用できて百戦危うからず。

参考

M&Aファイナンス
M&Aファイナンス
posted with amazlet at 11.04.13
笹山 幸嗣 村岡 香奈子
金融財政事情研究会
売り上げランキング: 52950

同著はLBOローンに関する解説書。内容は実務的で実例も多くかゆい所に手が届く内容となっている。当ブログを読んでいきなり実務書に手を出す人はあまりいないと思うが、なかなかわかりやすいので紹介しておく。読むと、LBOのローンは普通のローンとは少し違うものだということはわかると思う。

*1:「[https://twitter.com/#!/kuzyo/status/57242085316767744:title=コチラ]」や「[http://homepage1.nifty.com/maname/log/201104.html#120659:title=コチラ]」など

*2:経営陣が自分が経営している会社を買収すること

*3:買収対象会社のキャッシュフローを返済原資とする借入資金を活用し、買収を行うこと

*4:日本語で言うと財務制限条項

*5:未公開株への投資を生業とする投資ファンド

*6:【】内追記。4/13

電子商取引市場の伸びしろとCDS

少し前、TechCrunchの「インターネット販売でAmazonを出し抜くには 」というエントリーが注目を集めていた。内容は題名の通りで、電子商取引の分野でamazonを上回るためにはどういった戦略があるかということを考察するエントリーである。

新しいマーケットプレイスの創造

当該エントリーには、いくつか仮説が提示されていたが、私がもっとも共感したのは以下。

再販業者にならず、買い手と売り手のためのマーケットプレイスを作る。Etsy、eBay、IronPlanet、Copart、Elanceなどは、ネットワーク効果を守るための技巧に特化することによって、優れた価値を生み出した。この分野はまだまだ伸び代を残しており、ベイビーシッターからピアノのレッスンまで、待望されているマーケットプレイスはたくさんある。最高のマーケットプレイスは、頻繁に購入される商品で、さまざまな種類の売り手が豊富にいて、やりとりの繰り返しが少ない、という傾向にある。

インターネット販売でAmazonを出し抜くには | TechCrunch Japan

例えばヤフオクのような個人や小規模事業者が参加するマーケットプレイスで、CDSのようなデリバティブを流通させたら、取引は相当盛り上がり「Amazonを出し抜く」ことも夢ではないのではないかと思っている。

順に説明しよう。

CDSとはなにか

CDSというのはCredit Default Swapの略称で、よく保険のようなものと説明される。

例えばあなたが、ソフトバンクの発行する年利5%の債券を1億円分保有しているとする。年利5%だから、毎年500万円の金利が支払われる。CDSというのは、この500万円の金利のうち400万円を保証料として毎年支払う代わりに、ソフトバンクが万が一倒産した時に1億円の補償を受けられるという取引を指す。CDSの買い手(保証料を支払って保証を受ける側)は金利収入の大部分を失うが、もしものときにも損失が補てんされるという安心感を得ることができる。一方CDSの売り手(保証料を受け取って保証する側)は、万が一のことがあったときには多額の負債を負うことになるが、手持ちの資金を一切使わず、債権を保有することもなく、多額の保証料収入を得ることができる。

ここまでは確かに保険によく似ているが、CDSが保険とおおきく異なるのは、CDSの買い手は必ずしも保証の対象となる債券なりを保有しているとは限らないということである。ご理解いただけるだろうか。上の例で言うと、CDSの買い手は毎年400万円の保証料を支払うが、ソフトバンクの債券を保有しているわけではないので、400万円は完全な持ち出しである。何故そんなことをするかというと、ソフトバンクがデフォルトすると予想しているからだ。予想通りソフトバンクがデフォルトした暁には、数百万から数千万円程度の保証料に対して1億円の支払いを受けることができることになるわけだから、多額の収益を計上することができる。

これは保険というより、ただの博打である。ソフトバンクのデフォルトリスクを対象に、単に賭け事をしているに過ぎない。

利害関係者以外のものによるこの博打まがいの取引は、長らく法律で禁止されてきたが、2000年に米で商品先物取引現代化法が成立し、合法化された。以降CDSの取引市場は拡大の一途を辿り、2001年には8億ドルだった市場規模は、2006年にはなんと26兆ドルに達したという。

無限に膨らむバブル

CDSの最大の特徴は、販売量に上限がないということだ。何度も例に出して申し訳ないが、例えばソフトバンクの債券は、当然のことながら、販売量に限りがある。ソフトバンクが発行した総量以上にそれを売ることはできない。ところが、ソフトバンクの債券に関する博打であれば話は別だ。ソフトバンクの債券がデフォルトすると思う人と、デフォルトしないという人がいる限り、何百兆だろうが賭けは成立するのだ。

サブプライムローン債券を加工してつくられたAAA格の証券化商品に関するCDSを大量に購入し、実際にそれが相次いでデフォルトした際に莫大な富を築いた投資家スティーヴ・アイズマンは、CDSとは何なのか、いったい誰がこんなものを売っているのかを初めて理解した時の感想を、次のように語っている。

「連中は、不適格な借り手を大勢見つけて、不相応な家を買わせるために金を貸しつけるだけじゃ、飽き足りなかった。コピーで製品を捏造してた。百回も繰り返して!だから金融システムの被害は、サブプライム・ローンだけの損失よりはるかに大きなものになったわけだ。」
−世紀の空売り 第六章|遭遇のラスヴェガス P.218

当時住宅ローン債権の証券化商品は、その高い格付けを背景に飛ぶように売れていたから、住宅ローンの新規貸し付けは怒涛の勢いで行われ、終には十分な返済能力を有さない貧困層にまで貸し付け先が拡大された。当時は証券化すれば何でも売れたから、債務者の与信など関係なかったのである。そして、貧困層にまで貸し付け対象を広げてもなお、潤沢過ぎる投資マネーを消化しきれなくなったとき、CDSが売られたのだった。投資家は、同証券化商品に関するCDSを売ることで、当該証券化商品と同程度のリスク負担で、同程度の金利収入を得ることができた。まさにコピー製品である。そしてCDS取引の相手方として重宝されたのが、上であげたアイズマンのような、サブプライム証券化商品のデフォルトに賭けていた一部の投資家たちだった。

電子商取引市場への応用

以上でCDSの何たるかをご理解いただけたならば、これが簡単に現物商品を取引するマーケットプレイスにも応用できるということがわかるだろうと思う。例えばソニーの新型PSPが品薄で価格が吊り上ると考える人と、人気は限定的で価格はすぐに下がると考える人が賭けをすればよい。これによって取引は莫大に膨れ上がるのではないかと予想する。

これは何も生み出さない単なるゼロサムの博打だろうか。私はそうでもないと考える。かたちはどうあれ、市場参加者が商品の値下がりに賭けることができるようになることによって、価格形成が効率化する可能性は否定できないのではないだろうか。

以前紹介した通り、現状においてもヤフオクのようなマーケットプレイスを根城にして、商品に対する需要とはかけ離れたところで裁定取引のようなことをしている転売屋と言われる輩は厳然と存在している。ところがこの取引市場は買いからしか入れないから、商品の価格は高騰するばかりで実に迷惑でなのである。

もしヤフオクのようなマーケットプレイスにCDSのようなものを導入し、かつその取引価格を実物価格とうまくリンクさせる仕組みをつくることができれば、転売屋にいまよりも値下がりのリスクを負わせることが可能になるかもしれない。また、転売屋から高値で商品を買っても同時にCDSを購入し、商品が値下がりした時に利益を出すという使い方もできるかもしれない。CDSを売るのは商品を仕入れ損なったノロマな転売屋だとすれば、全体で見れば最初に転売屋に支払ったプレミアムを取り返すことに成功している。

こうした諸々の取引の拡大によって、より短い期間で適正な価格への調整ができるようになる可能性があるのではないかと私は思っている。

会社は何故非公開化するのか

震災の影響ですっかり鳴りを潜めてしまったものの、今年は年初よりTSUTAYAの運営会社であるカルチュア・コンビニエンスクラブや、アート引越センターのアートコーポレーション、ワインのエノテカ、システム開発のワークスアプリケーションなど、それなりの有名どころがMBOで非公開化する事案が相次ぐ、M&A業界にとっての当たり年だった。

MBOによる非公開化自体はかなり一般化してきた感もあり、多くの人は新聞やテレビなどでこの言葉を見たり聞いたりしたことがあると思うが、一方でその内実は市井の人々にとっては比較的難解で理解がしづらい面もあるやに思い、今日は少し解説を試みることとした。

タイトルの「会社は何故非公開化するのか」は、よくこうした問いが立てられるので採用したが、結論から言えば買収の対象となる会社側に非公開化する積極的な理由があることは極めて稀で、どちらかというと買収する側の都合でそうならざるを得ないことの方が圧倒的に多い

用語の意味

私の肌感覚では概ね6割から7割の人が混同しているように感じるが、MBOとLBOTOBは全部違うものである。また、これらの取引は株式の非公開化を伴うことが多く、こちらも含めてごちゃ混ぜになっていることが多いので、まずは下表に整理しておく。

略称 正式名称 日本語訳 内容
MBO Management Buy Out 経営陣による買収 経営陣が自分が経営している会社を買収すること
LBO Leveraged Buy Out (借入を)梃子にした買収 買収対象会社のキャッシュフローを返済原資とする借入資金を活用した買収のこと 日本女子ボウリング機構ではない
TOB Take Over Bid 公開買付け 買付けの予定を広く公表し応募を募り、株式市場の外で大量に株式を買付けること
なし Going Private 株式の非公開化 自社が発行する株式の上場を取りやめ、公開企業でなくなること

よって無理矢理一文にすると、LBOの仕組みを活用してMBOを行うにあたって、TOBを行った後に完全子会社化し、結果として対象会社の株式が非公開となるという整理となる。

例えばある会社の経営陣が自社を買収することを検討するとき、大抵の場合は経営陣の自己資金だけでは到底足りないので、同経営陣は買収資金を外部から調達する必要に迫られる。もっとも、その経営者がいくら有能だったとしても個人の与信で何十億や何百億という多額の資金を調達することは不可能なので、対象会社のキャッシュ創出能力を裏付けとして資金の調達を図ることとなる。これがLBOである。

今となっては懐かしいソフトバンクによるボーダフォン買収が日本では最大のLBO(MBOではない)で、買収総額1兆7千億円のうち1兆円近くがボーダフォンキャッシュフローを裏付けとした借り入れによってまかなわれた。同ローンはボーダフォンの通信料収入の証券化を絡めた複雑なストラクチャーで、LBOの応用型ともいえるものであった。

他方、買い手がそれなりの規模の企業で、かつ対象会社の規模がそこまで大きくないときなど、買い手自らの与信のみで買収資金を借り入れることが十分可能な場合も往々にしてある。こうした買収についても借り入れを活用して少ない自己資金で買収を行っていることからLBOの一種だと考える人は少なくないが、厳密に言うとこれをLBOとは呼ばない。LBOという場合あくまで、対象会社の与信で借入が行われるケースを指す。

何故非公開化するのか

さて、上記LBOの定義からも明らかな通り、LBOというのは、対象会社にとってみれば多額の負債を負わされるだけの取引で、LBOの結果、事業から創出されるキャッシュの大部分は、自社が買収された際の買収資金の返済という、会社にとってみれば何の意味もない使途に充てられることとなる。

株式会社という仕組みにおいては、会社が生み出したキャッシュは最終的に株主に帰属するということと、すべての株主は平等であるという大原則がある。LBOには上述の通り、ある特定の大株主が、買収資金の借入という本来自らが負うべき債務の弁済のために会社の資産を流用するという、少数株主の利益をまったく無視した一面があるから、株主平等の原則に明確に反するものである。

そして、こうした違法状態とそれに基づく株主代表訴訟のリスクを回避する唯一の方法は、買い手が、対象会社を100%子会社化し、自身が単独の株主となることである。少数株主をあらかじめ排除してしまえば、文句を言われることはないという理屈だ。

つまり、会社が非公開化する直接的な理由はここにある。即ち、LBOを法的にクリアなかたちで成立させる為には、対象会社を買い手の100%子会社にせざるを得ず、株主が1名のみとなった会社は当然上場を維持できないということだ。

株式の非公開化は、このように極めて現実的な課題を解決するために必然的にもたらされるものである。こうした背景に思いを馳せれば、対象会社が非公開化する理由として一般に語られることの多い、少数株主を排すことで迅速な意思決定が可能となるとか、長期の利益を優先して経営の立て直しを図ることができるとかいうストーリーは、全て単なる建前に過ぎないということがわかるだろう。

実際、経営者が資産家で十分な自己資金を保有しており、買収がすべて経営者の自己資金で行われた場合であれば、MBO後でも上場を維持しているケースというのは、普通にある。有り体に言ってしまえば、別に少数株主などいようがいまいがそもそも経営には大して影響はないのであって、非上場化することではじめて可能になる「迅速な意思決定」などというものはない。上場が維持できるのなら維持したい、というのが多くの経営者の本音ではなかろうか。

そもそも論

上記はLBOと非公開化の直接的な因果関係を説明するものであるが、LBOが実施されるそもそもの理由を説明するものではない。上述の通り、経営陣が買い手となるMBOでは資金的な問題からLBOが採用されることが多く、LBOにおいては会社が非公開化するのは当然の帰結だが、そもそもMBOが実行されるのは何故なのだろうか。

ひとつのシンプルな理由は、経営陣が自社株式の市場価格は割安であると判断したからだろう。安い時に買って高い時に売るというのは、株式投資の基礎中の基礎だ。

これは端的に言ってインサイダー取引との線引きが極めて難しい話ではあるが、将来の見通しに関する見解は当然千差万別だから、そういう意味では経営陣の見解と市場の見解に相違があること自体は何ら珍しいことではなく、勇敢な経営陣が自らの勘を頼りに市場の評価に異を唱え、株を買い集めるという図式は成立しないこともない。

ただ、その「見解の相違」が純粋な判断力の違いではなくて、情報の非対称性に基づいている場合、つまり簡単に言えば経営陣が一般株主では知り得ない情報をもとに投資判断を行った場合、これは原則的にインサイダー取引となる。どう考えてもどれだけ情報開示を適切に行なったところで経営陣と一般株主との間の情報の非対称性を完全に解消することは不可能だから、これは極めて厄介な問題ではある。つまり、程度の問題でしかなく、じゃあどの辺で線引きしましょうか、という話でしかない。MBOした経営陣と少数株主の間で大規模な訴訟に至った案件としては牛角レックスホールディングスのMBO案件が有名だが、MBOと訴訟が切っても切り離せず、MBOというと常になんとなくキナ臭い感じになるのはこのためである。*1

いずれにせよ、経営陣が「何らかの理由」で、自社の株価は割安だと判断した場合は、買収(MBO)という選択肢が当然に生じ得る。買収の経済的合理性が一定のレベルを超えると、計画は実行に移されることになるが、上述の通り大半の経営者は買収資金全額を自己資金で賄うことはできないので、スキームとしてLBOが採用され、結果として会社は非公開せざるを得ないこととなる。

PEファンドによる営業

MBOが実行されるもうひとつの理由として考えられるのが、PEファンドの存在だろう。PEというのは非公開株式を意味するPrivate Equityの略で、PEファンドと言うのはつまり、非公開株式への投資を専門に手掛ける投資ファンドのことだ。PEファンドは比較的リスクの高い、創業間もないベンチャー企業やリストラが必要な不採算企業に資本を注入し、経営が安定した暁に株式を売却して利益を得ることを生業とする。

PEファンドにはコンサル会社の出身者などが多く、投資先に対していろいろと経営上のアドバイスを行ったりする「ハンズオン」のスタイルが基本だが、そうはいってもやはり経営の専門家ではなく一種の金融業者であるから、会社を買収してもそれを経営する人がいないという問題にしばしば直面する。

この点、MBOであれば、経営陣が主体となって買収を行いその後の経営も彼らが担うから、PEファンドは資金提供に専念することが出来て都合がよい。よってPEファンドは、MBOをしてはどうかと企業経営者に打診することとなる。そうして実行に至る案件は決して少なくない。

PEファンドは運用資金の効率化を最大化するため可能な限りレバレッジをかけようとする*2一方で、ファンド自体には借り入れの担保となるような事業も資産もないから、スキームは必然的にLBOになる。PEファンドは、実に容赦のないレバレッジのかけかたをするので、売り上げの何倍もの負債を負わされ、それを返済するために研究開発や広告宣伝などのすべての投資活動を犠牲にしているような会社は枚挙に暇がない。

つまり、単純にPEファンドの資金調達環境が良好であればMBO案件は増えるし、環境が悪化すればMBO案件は減少するという関係にある。LBOがピークを迎えたのは2007年頃だったと思うが、当時は買収金額の80%近くが借り入れでまかなわれることが通例だったように記憶している。PEファンドが案件を競り落とすために無理矢理釣り上げた買収金額がトランチング(階層わけ)され*3、優先的に回収が行える順に上から50%程度を銀行が拠出することに加え、さらにその下のメザニントランシェなどと言われる謎の階層にも資金がついていた。買収を主導するPEファンドなどは全体の20%程度の資金だけを拠出すれば済むわけで、気持ちが大きくなるのも当然と言えば当然と言える。

ちなみにこの場合、対象会社の株式についてはPEファンドがほとんど持つことになり、経営陣が持つ株式はほんの僅かとなるが、PEファンドは少数株主よりも格段に口うるさいし、そもそも転売による儲けを前提とする株主なわけだから、MBOによって意思決定が迅速になったり、長期的な視野に立った経営ができるようになるという大義は更に空洞化することになる。

参考

東京ディール協奏曲
東京ディール協奏曲
posted with amazlet at 11.04.10
栗山 誠
集英社
売り上げランキング: 347077

同著はM&Aのディールを題材にしたフィクションもので、著者の経歴は明らかにされていないが、M&Aにおけるオークションやファイナンシングのプロセスに関する記述はリアルで、臨場感がある。ストーリーは、ある大手メーカーの子会社売却に際してのビッディング・プロセスを軸に進行するが、ファンドをスポンサーにしたMBOや時流に乗ったIT企業、ドバイ・マネーなどがひしめくなか、情報漏えいなどの事件も織り交ぜられ、盛りだくさんの内容になっている。さすがに現実のディールではそこまでうまく行かないだろと思うものの、同著で表現されているどこか浮世離れした軽妙なノリは、実際のディールにおけるそれをうまく表現しているようにも思う。
決して難しい内容ではなく簡単に読めるので、ちょっと気軽にM&A業界の雰囲気だけ味わってみたい人にはオススメしてみたい。

*1:インサイダーの誹りを逃れるために有効な対策は、市場価格に対して十分に高いプレミアムを上乗せした買収金額を提示することでしかない。MBOによるプレミアムの相場は40%とか50%とか言われるが、当然のことながら個別の事例として対処する以外に道はなく、一般論として解決できる問題ではない。ところが普通の個人株主は支払われるプレミアムが相応なものかどうかの判断がそもそもできないから、常に搾取されるリスクと隣りあわせということになる。

*2:買収資金の一部を自分たちの期待リターンよりも低いコストで調達することで、利益の絶対額は減少する一方で投下資本に対する収益率は上昇する。

*3:このあたりについて、詳細は過去エントリー:「[http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20091206/1260082366:title]」など参照のこと。

原発は「安全」なのか

福島の原発が緊急停止して以来フル稼働を続けている我らが池田信夫先生だが、その勢いはとどまるところを知らず、最近では原発を自動車と比較して安全だと強弁するのが先生のマイ・ブームのようだ。

自動車のリスクを「年間5000人」と書くのなら、同じ基準で原発のリスクを比較しないと不公平だろう。日本の原発事故の死者は、これまでゼロである。2名の死者が出た東海村事故は核燃料加工施設だが、それを入れても年間0.04人。少なくとも「原発のリスクは自動車をはるかに上回る」とはいえない。

池田信夫 blog : 自動車や石炭火力は原発より危険である - ライブドアブログ

過去のデータを援用して原発の「安全性」を訴えるその姿は、まるで住宅ローンのデフォルト率に関する過去の統計データを根拠に、サブプライム層向けの住宅ローンを証券化商品に加工したものを、理論上絶対安全と吹聴して世界中の投資家に売りまくった投資銀行家のようだ。

サブプライムローン問題においては、過去何十年に渡って安定していた住宅ローンのデフォルト率があるときを境に急増し、何百倍にも膨れ上がった。これは、端的にいえば証券化商品の販売が好調だったがために、信用力の低いサブプライム層に対しても貸し出しを増加させたためだが、過去の統計データが将来の結果も保証するわけではないという当たり前の教訓をもたらした。

今回の原発事故についても、未だ事態は収束しておらず、被害がどこまで深刻化するかわからないからみんな不安になっているわけで、統計上は安全であると主張したところであまり意味を持つとは思えない。

そもそも、今回と同規模の事故は過去にチェルノブイリとスリーマイルしかなく、統計データと呼ぶにはあまりにも心許ないという気もする。


過去の統計データなどによる推計からは考えられないような事象が起こることを、存在しないと思われていた黒い白鳥が発見されることで既存の常識が覆る現象に準えてブラック・スワンと呼ぶが、面白いのは、池田先生が上の記事を執筆される2週間ほど前に、「原発事故というブラック・スワン」という記事を執筆されている点である。

今回起こった福島の事故が本当に想定外の、理論上は起こり得ないようなものであればあるほど、過去のデータなど引き合いに出しても何の意味もないということにしかならない。これからまったく想定外の事態に発展して多数の死者が出るかもしれない。

私は原発について何ら専門的な知識を持たないので、福島でこれから起こり得る事態をある程度の論理的整合性をもって解説するようなマネはできないが、想定外の事故が起こったのであれば、今後想定外の被害が発生する可能性があるということはわかる。それは太陽系の惑星がすべて縦に並ぶような確率かもしれないが、そういうことが1週間続けて起こったりするというのが池田先生も大好きな「ブラック・スワン」の意味するところだ。

原発事故はブラック・スワンだと言うことと、原発は統計上安全だと言うことはまったく逆のことで、それを同時に主張するのは、まるで「まあデフォルトしますけどね」と言いながら証券化商品を売るようなものである。


私は別に原発に反対するつもりはまったくなく、むしろ安定した電力供給のためにできることがあれば協力したいくらいだが、原発のリスクを必要以上に矮小化するつもりは毛頭ない。

現状においても、原発から半径20キロ圏内の住民には避難指示が出され、30キロ圏内の住民には屋内退避指示が出されている。約40キロ離れた飯舘村の土壌からも、IAEAの避難基準の約2倍にあたる放射性物質のベクレル量が検出された。放射性物質による汚染の被害は数万年にも及ぶと言われ、こうした地域に住む人たちは、不安に苛まれながら避難所で生活し、生きているうちには自宅に戻れない可能性もある。特に農家の人々などは商売道具の田畑が汚染されてしまったわけだから、生活が成り立たないだろう。こうした被害は誰がどう見ても「自動車をはるかに上回る」もので、死者が何人出ているかという問題ではない。

死者が出ていないのは単に避難したからで、自動車事故と死者数で比べても何の意味もないことは明らかである。例えば本州の人全員が避難しなければならない事態に陥っても、死者が出なければ「安全」なのだろうか?

当たり前だけど、そういうことではないだろう。避難の結果死者ゼロで済んだからと言って、「安全」が事後的に決まるようなことがあるはずがない。常識的に考えれば、「危険」だからこそ避難した(させた)んである。

ボディビルダー風セールスマンの倫理観とリスクについて

金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか」は、かのリーマンブラザーズの元従業員が破綻の内情を綴ったいわゆるノンフィクションものだが、自分達は実に有能な働きをしたし、サブプライムモーゲージなんかも危ないと思ったから必死で止めたんだけど、上司のファルド*1がバカでさあ、という居酒屋でくだをまくサラリーマンのような論が展開され、そこにはまるでドリフの定番コントをみているかのような安定感さえあり、読んでいると話の規模こそ大きいものの何となく落ち着いた気分になれる稀有な一冊である。

同著のハイライトは、基本的には著者のファルドに対する恨み節だが、米国サブプライムローンの貸し出し現場に関する記述もなかなかエキサイティングなので、今日はその紹介。

サブプライムローンの実態

まずは、米住宅バブル全盛期において販売されていた住宅ローンの特性に関する記述を引用する。

全米有数の農業地帯であるストックトン周辺の識字率が、全米最低の水準にあったことも、住宅ローンのセールスマンには有利に働いた。彼らの顧客の半分は、契約書を理解するどころか、読むことさえできなかったからだ。ニンジャ・ローンは当初の金利が1〜2%と不自然なほど低いものの、数年後には5〜10倍にまで跳ね上がる。結局、これが住宅ローンの債務不履行の激増につながるのだが、顧客が契約書を読めないのをいいいことに、このような条項を組み込んだのではないかという疑惑は、当時からささやかれてはいた。(中略)
『ウォールストリート・ジャーナル』によると、借り手はすでに支払えなくなったローンを、もっと払える見込みのない借り換えローンで返済し、さらにクレジットカードにまで手を出すのだという。当時のウォール街では、”ストックトンは事前申請をしておかないと自動的にローンを組まれてしまう全米唯一の町である”というジョークが流行っていた。
金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか

ストックトンというのは、サンフランシスコの東に位置するニュータウンで、サブプライムローンの急増な普及に伴いピーク時は人口が毎年5000人のペースで激増していたといういわばサブプライムローンの涅槃のような地域だったそうだ。

当時流行していた住宅ローンは、収入も仕事も資産もない人(No Income, No Job, no Asset)でも借りられることからニンジャ・ローンとなどと呼ばれ、借り手に所得証明書の提示を求めないまったくの無審査ローンであり、金利はなんと1〜2%、さらには住宅価格に対して110%のローンが実行されるため住宅を買っても更にポケットにカネが残るという、まるで奇跡のような代物だった。

同ローンは、種を明かせば、実行から数年後には金利が5倍から10倍に跳ね上がると共に元金の返済が加速度的に始まるという設計になっていたそうで、とりあえず顧客を借り入れに踏み切らせることだけを目的とし、目先の条件を可能な限り取り繕うことのみに全神経を注ぎ込んだ商品設計と表現する他ない。

通常、こういった貸し方は貸し手にとってリスクが大きすぎるため、あまり行われないものであるが、当時の米国ではいかなるローン債権であろうともウォール街投資銀行に販売することが可能だったので、住宅ローン会社は回収の可能性やリスクについての判断を完全に度外視し、純粋に貸し出し残高を増やすことだけに集中できたのだ。

一方の投資銀行はと言えば、こうして生まれた住宅ローン債権を纏めて買い取り、証券化商品としてリスク加工を施し、高い格付けを添えて、カネを余らせた世界の投資家に販売していたから、こちらはこちらで濡れ手に粟の一大ビジネスだった。つまり、リスクを負担する当事者は現場にはひとりもいなかったということだ。

ボディビルダー風セールスマンの倫理観

さて、リーマンブラザーズのディストレス債権部門だった著者らは、大した能力もない癖に自分たちより大金を稼ぎ出し、バカな上司(ファルド)にも滅法気にいられているサブプライムローン債権の証券化部門の活躍を不審に思い、わざわざサブプライムローンの貸し出し現場まで視察にいき、全米2位の住宅ローン会社であるニューセンチュリー社のセールスマンにインタビューを敢行する。

わたしたちは食事を終えるとレストラン内のバーに移動した。カウンターでは2,3人の”ボディビルダー”がビールを飲んでおり、何気なく話しかけてみると、”ウォール街から休暇でやって来た2人組”を快く受け入れてくれた。住宅ローン販売は世界一のビジネスだと彼らは言い切った。年収は30万から60万ドルということだった。
金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか

こんなマンガのような話が本当に事実なのか、若しくはアメリカンジョークの一環で誇張して表現しているのかはイマイチよくわからないが、著者らによれば、ニューセンチュリー社のセールスマンは何故かみんな判で押したように筋肉ムキムキで、肌は浅黒く、頭はスポーツ刈りのボディビルダー風の出で立ちだったそうで、年収はひとりあたり30万ドルから60万ドル、車はフェラーリやジャガーを乗り回し、真っ昼間から高級オーデコロンのにおいをプンプンさせ、レストランのウェイトレスには100ドルのチップを渡すというバブルを絵に描いて額に入れたような振る舞いをしていたらしい。

以下は著者らとボディビルダーらとの会話。

金利見直しによって債務不履行が広がる可能性を考えたことはないのか、と私が尋ねると、彼らはさっきよりもきっぱりと否定した。『知ったこっちゃないね。俺たちの仕事はローンを売るところまでだ。そのあとのことは、ほかの連中の問題だよ』
低所得者たちが金利見直し後も返済を続けられると思っているのか?『そう願うけど、払えなくなったらスラム街へ戻ればいいだけの話だろう?』
住宅ローンを提供する前に、収入や審査を書類で審査しているのか?『とんでもない。必要なのは自己申告だけさ。うちは無審査が売りなんだ。審査なんかしてたら、商売はあがったりだよ』
金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか

案の定と言えばそれまでだが、セールスマンたちの意識には債権者としてのリスク管理も、債務者に対する配慮も一切なく、純粋に自分たちの給料を最大化するために住宅ローンの販売しており、倫理観の欠片も見られない。すべてのリスクは加工されて海の彼方に飛んでいくのに、巨額のリターンだけが手元に残るのだからそれもそのはずである。

同著によれば、ニューセンチュリー社のトップスリーは上記住宅ローンの販売事業によって3年間で実に7400万ドルの報酬を手にし、成績優秀者には豪華客船で行くバハマの旅が送られ、船上では”われわれは世界一の住宅ローン会社だ。以上!”という旗の下で酒池肉林の宴が開催されていたらしい。

この話から学ぶべきことがあるとすれば、それはボディビルダー風のセールスマンは倫理観がないから気をつけろということではなく、リスクを取らない人は、基本的に信用に値しないということだろう。リスクがないときの人間というのは概してこういうものだ。何かもっともらしい意見を言っている風であっても、結局は現実を追認する程度のものしか出さず、いまのトレンドが大きく変わるような事態は想定しない。結果に対して責任を持つ必要がないから、その場その場で調子のいいことだけを言う。

全然関係ないが、最近だと福島の原子力発電所の問題について、いろいろな人が思い思いの意見を述べていらして実に騒々しいが、誰が信頼するに値するかを判断する際は、その人がどういうリスクをとっているのかを考えてみるのがいいのではないかと思う。

おまけ

ところで、先日たまたま目にした「「悪夢」のマイホーム 〜住宅ローンに隠された爆弾〜(井上 悦義) - BLOGOS(ブロゴス)」というエントリーで、米国サブプライムローンと日本の変動金利型住宅ローンが同列に語られており、それがまたそこそこ賛同を集めていたので度肝を抜かれたが、日本の金融機関は、債務者を審査したうえで、きちんとローンを返せそうだと判断した相手に貸し出しを行っている。あまりにも当たり前のことだが、この点は非常に大きな違いである。

また、確かに日本の住宅ローンにも変動金利があって、市場金利が上昇した暁には金利負担が増えるリスクを債務者が負っているが、その分当初の金利が安く抑えられるというシンプルでフェアな取引であり、当初の金利が単なる「釣り」に過ぎず、期間が経過すると大幅に支払額が上昇するというサブプライムローンの設計とは一線を画すというか、そもそも根本の考え方からまったく異なると言っていいものだ。

金融機関と聞くと、やたらと悪者にしたがる人は世の中には多いが、米国でサブプライムローンを売っていた住宅ローン会社(←銀行でもなんでもないいわゆるノンバンク)と、日本の銀行を十把一絡げにして語るのは、さすがに日本の銀行に失礼である。

参考

冒頭でも紹介したとおり、サブタイトルである「リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか」に対する著者の答えは、ファルドがバカだからというある種潔いものであり、小気味よい。リーマン・ブラザーズという伝統ある投資銀行の破たんの原因は、証券化のリスクがどうとかブラックスワンがこうとかいうある種小難しい話ではなく、嫉妬と強欲にかまけたファルドが、バブルに身を任せて無茶な博打をし過ぎただけというのは、シンプル過ぎて逆に見失いがちな結論ではなかろうか。

金融大狂乱 リーマン・ブラザーズはなぜ暴走したのか
ローレンス・マクドナルド パトリック・ロビンソン
徳間書店
売り上げランキング: 23892


*1:リチャード・S・ファルド・ジュニア。事件時リーマンブラザーズの会長兼CEO。

素人相手にいくら積極的に情報開示しても時間の無駄

先週の東日本大震災の影響で、福島の原子力発電所においては、緊急停止後の非常用電源系統の誤作動からはじまり、建屋の爆発や火災などが相次ぎ、炉心の溶融や核廃棄物の再臨界などが懸念されるなど、危機的な状況が続いている。震災から約1週間がたった19日未明、懸案の発電施設が外部からの電源を確保したとのことで、適宜原子炉の冷却が遂行される予定ではあるものの、まだ予断を許さない状況である。

一般市民に必要なものは本当に情報なのか

こうした状況を受け、巷では放射能漏えいの可能性や人体への影響について、考えうる限りのデマや憶測が飛び交っているが、いずれも真偽の区別は困難で、多くの人がパニック状態に陥っている。

人々がパニックに陥るのは情報がないからだということで、一部では東京電力や政府の情報開示姿勢を批判し、より正確な情報をより積極的に開示すべしと主張する向きがあるが、私はこれは違うのではないかなと思っている。

正直なところ、私程度の知識水準の者が緊急停止後の炉心冷却用の非常用電源に異常などという情報を積極的に開示されても、「普通に常用の電源で動かせばいいじゃん」としか思わないし、核廃棄物のプールの水位が低下と言われても「水、足せばいいじゃん」としか思わない。少しでも専門的な用語を使われようものなら完全にお手上げで、シーベルト(Sv)とグレイ(Gy)の違いすらイマイチ理解できない。

今回の事件が起きるまで原発について真剣に考えたこともなければ、真面目に勉強したこともないような人間が、いくらにわか知識で体裁を整えたところで限界があることは明らかであるから、人によって程度の差はあるのだろうが、大半の人は私と概ね同じくらいの知識水準ではないかと推察している。

そういう人に理解できるのは、以下の、まるで幼児にでも向けたかのようなウンチとオナラの例え話程度のものであるというのが、悲しい現実だろう。

リテラシーの問題と情報開示のコスト

上記のような情報開示をめぐる問題は、何も今回のような危機的な状況に限ったものではなく、常に存在している。

例えば金融庁は、「貯蓄から投資へ」という意図不明の謎のキャンペーンのもと、個人投資家の市場参加を促すべく、上場企業に対して積極的な情報開示を義務付けてきた。結果として、上場企業各社は四半期ごとに自社について膨大な情報を調査し、まとめ上げたうえで、積極的に開示している。また、取引所も企業に対して株価に影響を与えるような重大な事実が決定したら、投資家に対して即座に開示することを求めている。

では、そうして情報開示を受けた個人投資家がそれらを有効に活用しているかというと、実に怪しいものがあるのだ。開示情報を読み解くには少なくとも会計の知識が必須だし、読み解いた情報をもとに株式価値を試算するには少なくともファイナンスの知識が必須である。例えば資本コストとはどういうものか、ざっくりとでも説明できる人は一体世の中に何人いるのだろうか。

証券会社に勤めていると、そもそもPERなどの最低限の指標すら知らないで株式投資をしている人がいかに多いかがわかる。数年前、IT系という看板を掲げているだけで中身は何もない会社群が個人投資家の人気を集めていたが、あの現象こそ個人投資家が株価を雰囲気だけで判断していることの証左だろう。足りないのは企業側の情報開示ではなく、投資家側のリテラシーなのだ。

他方、企業側は厳格な開示義務を果たすべく、体制構築に多大なコストをかけている。四半期ごとの決算を30日後なり45日後なりに開示しようとすると、それなりに大量の人的リソースを要するからだ。当然会社の規模によって異なるけれど、開示義務に対応するためのコストとして、年間数億円程度は投じる必要がある。

これは社会全体として見たときに、実に無駄の多いシステムである。多額のコストをかけることで情報の非対象性がきちんと解消されているのであればまだしも、開示を受ける側のリテラシーの不足から、かなり無駄なコストと呼んで差し支えない状況となっている。高度に複雑化した現代社会にあっては、ある分野における専門的な情報を門外漢にもわかりやすく発信するためには、コストが高くつき過ぎるのである。

専門家の中から信頼できる「エージェント」を見つけるしかない

こうした無駄を社会から取り除くためには、情報の一次取得者を高いリテラシーを持った一部の人間に限定し、その一部の人間が、他の一般市民の代理として、責任を持って当該情報を分析し判断を下すという方法がある。

「高いリテラシーを持った一部の人間」は、多くの場合エージェントと呼ばれる。上述の金融市場の例で言えば、エージェントは、銀行や投資信託の運用会社(ファンド)だ。一般市民の余剰資金を預かり、資産運用を代行する業者である。

問題となり得るのは、エージェントが自らの優越的な立場を濫用して顧客を騙す可能性だが、一般市民がエージェントを複数の候補から自由に選択できるようにし、エージェント間で競争原理を働かせることで、ある程度の問題は解決することができる。そうすることで、我々はエージェントが自らの立場を貶めるようなマネはしないだろうという判断ができるようになる。

原発の問題も同じで、一般市民に必要なのは、「積極的な情報開示」というよりは「適切な(避難)指示」である。しっかりした一次情報情報をもとに、どのあたりまで被害が及ぶ可能性があるかを市民に代わって分析し、分析した結果を冷静に伝えてくれるいくつかの「エージェント」こそが必要なのだ。小難しくて理解不能な情報や「車のナンバーが読み取れるほど鮮明」なリアルタイムの映像などを積極的に浴びせかけても、一般市民のパニックは加速するだけである。


当然のことながら、エージェントの選定は慎重に行われるべきで、例えばテレビ局など、いわゆるジャーナリストがそうした役割を担えればそれに越したことはないと思われるが、日本のテレビ局には視聴率以外の分野に関する専門家が皆無で、原発の状況を伝えるにしてもどうしても煽り偏重になってしまい、内容がついてこないのが悔やまれる。

また、どこの馬の骨か知らないが、学部卒程度の知識で「ぼくちん原発にはすっごく詳しんだからな」などと公言して憚らない恥知らずなド素人もいるが、東京電力も多少怒鳴られたくらいで、こういう輩に余計な情報を開示するべきではない。

こういうド素人に過剰な情報を与えるから、ヘリコプターから放水というまるで二階から目薬のような奇抜な策を検討させられる破目になるし、意に反して東日本はつぶれるなどというデマを言い触らされ、世間のパニックに拍車をかけてしまうことにもつながる。

先日、米国の駐日大使が、原発の半径80キロ以内にいる米国人に避難するよう勧告したとのことなので、近隣の皆様においてはこうした避難勧告等に十分に注意深くなっていただき、慌てず行動していただきたいものである。

俄かには信じがたい狂気 ※追記あり

あまりに胸糞が悪く、引用することさえ憚られる内容なのだが、石原慎太郎がこの度の大震災に関して次の通りコメントしたようだ。以下はasahi.comからの全文引用。

石原慎太郎東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。都内で報道陣に、大震災への国民の対応について感想を問われて答えた。
発言の中で石原知事は「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘した上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。
石原知事は最近、日本人の「我欲」が横行しているとの批判を繰り返している。

朝日新聞デジタル:どんなコンテンツをお探しですか?

言うに事欠いて「震災は天罰」で、「津波で我欲を押し流すべき」とは、公人の発言でここまで品性下劣なものを目にしたことは記憶の限りなく、あらゆる非難の言葉を尽くしても言い表せない程の嫌悪を感じる。

百万歩譲って好意的に解釈すると、天罰を受ける対象は被災者ではなく支援にあたる我々で、私利私欲を捨てて支援にあたらなくてはならないという意図を汲めなくもないが、「震災が天罰」というレトリックは恰も被災者の方々が罪人であるかのような印象を生じせしめるものであるし、「津波で我欲を洗い落とす」などという言い回しは、津波の被害者の方々を日本の”我欲”扱いする極めて非人道的なものであるから、件の発言が被災者の方々にとって不愉快極まりないどころか暴力的なものであることは揺るぎ難い事実であり、表現の不適切さ及び薄汚さの加減は、まさに観測史上最大級である。


ここまで不適切な発言が滲み出る背景には、自己中心的かつ極めて幼稚な、人を人とも思わないような狂気じみた世界観が透けて見えており、非常に強い恐怖を感じる。例えば連続殺人犯が自らの凶行を語るのを聞くようなとき、前提となる世界観が我々とはあまりにかけ離れていることに戦慄させられることがあるが、それと同じ感覚である。

発言それ自体よりも更に、このような下劣な発言を平気で行える神経の方が、問題であるように感じる。


そして、げに恐ろしきはこのような有害物質が現に都政において最も責任ある立場にいることで、さらには4選を目指し次期都知事選にも立候補する意向を固めていることである。

既に3選していることも恐ろしい事実だが、我々都民は今一度注意深くなる必要がある。

この老い先短い狂気の塊りが、いつ自らの理想を実現させるために、常人では考え付かないような非道な手段を実行に移すとも限らないからだ。この老害はこの度、一旦は不出馬を表明しながらもそれを撤回してまで4選に挑もうとしているが、これはなにか独善的な使命感から来るとてつもなく壮大ではた迷惑な計画を胸に秘めているということではないのだろうか?

我々にできることは非常にシンプルで、この差別主義者の老人の発言や行動をじっくりと観察し、改めて、本当に都政を預けるに足る人物であるかをよくよく検討することだ。

どんなに優秀な人物であっても年と共に能力は衰えるし、価値観が凝り固まって思想が先鋭化することは頻繁にある。我らが東京都知事はどうだろうか?上の発言は重要なヒントになり得るのではないか。

追記(3/16)

石原は、件の発言について謝罪し、撤回をしたようだ。

東京都の石原慎太郎知事は15日午後、記者会見し、東日本大震災を14日に「天罰」と表現したことに対し、「発言を撤回し、深くおわびいたします」と謝罪した。石原知事は14日、蓮舫節電啓発担当相から節電への協力要請を受けた後、報道陣に「この津波をうまく利用してだね、我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心のあかをね。これはやっぱり天罰だと思う。被災者の方々、かわいそうですよ」などと発言していた。=一部地域既報

毎日jp(毎日新聞)

ただ、上の本文をお読みいただければご理解いただけるとおり、本件は謝ってすむような類の問題ではない。

問題は、そもそも件の発言というか思想を世の中に開陳して何ら問題なしと判断したその思考回路の飛躍ぶりであり、件の発言の背景に間違いなく存在する常人とはかけ離れた狂気じみた世界観にあるからだ。

賢明なる東京都民の各位には、問題の本質を見誤ることのなきよう、この場を借りてお願い申し上げたい所存である。

PVジャンキーの末路

先週末に東北地方と関東地方を襲った大地震は本邦観測史上最大級の規模とのことで、その凄まじい被害にはただただ息をのむばかりであり、このブログも更新を自粛しようかなどと少し考えたりもしたものの、別に私がブログの更新を控えたところで誰が助かるわけでもなく、おかしな自己満足に浸って自粛のスパイラルに嵌るよりも、いつも通りお気楽な妄想を垂れ流して世間様に苦笑されることこそが当ブログの使命かなどと思い、いつも通り更新することにした。

被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

さて、今回の大地震ような危機が発現し、国民がパニック状態に陥り、正確な情報が不足すると、「政府は真実を隠している!」などからはじまる壮大な演説をぶち、大衆を扇動しようとする輩が必ず出てくるが、これは本人の意図とは異なり無駄に大衆を混乱させるケースもある非常にリスキーな行為で、動機如何によっては下種であると断ぜざるを得ない。

池田無双

一部では既に盛大に批判されているようだが、今回、池田信夫先生が、NHK時代に原発の取材をしたことがあったからだかなんだか知らないが、福島の原発に関する不穏な報道が流れるや否やフル稼働を開始し、推測を織り交ぜた速報を精力的に世の中に発信されていたのが実に印象的であった。
以下では、特に印象に残ったツイートを引用し、個別に検証していきたい。


まずは以下の2つ。上のポストの方が時系列的に先に投下されていることに注意してほしい。

誤解をまねく表現がありました。「スリーマイル以上」というのは建屋が吹っ飛んだ点で、燃料棒などが(おそらく)まだ大気にさらされていない点では「スリーマイル未満」です。
2011-03-12 18:22:01

Twitter

原子炉建屋だったようですね。これで格納容器が裸になったので、スリーマイルより悪い。http://ow.ly/4d1rh (追記あり)
2011-03-12 20:47:39

Twitter

上のポストにおいて、「スリーマイル*1以上」という言い方に誤解を招く恐れがあることを認めておきながら、何故かその後も執拗に「スリーマイルより悪い」とする主張を繰り返す池田先生。

ご本人も指摘している通り、スリーマイル島では人的被害はゼロで済んだのだから、こういう場合、「スリーマイル以上」ではなく、「スリーマイル程度で済む」というような言い方をするのが常識的な言語感覚というものではないだろうか。いや、燃料棒*2が外気にさらされていないという点で、スリーマイルに対する大きなアドバンテージが残っているわけだから、「スリーマイル程度」という言い回しでも人によっては過激に感じる可能性は高い。ちなみに結果論ではあるが、最終的に事故としてはスリーマイル以下の水準ということで落ち着くのではないかというのが、本稿執筆時点における専門家間のコンセンサスのようだ。

結果論は置いておくとして、上記池田先生による発言当時、事実として建屋が吹っ飛んでいたわけだから「スリーマイル以上」という言い回しも不可能ではないのだろうが、こういう局面でわざわざそういう言い回しを持ってくるのは、傍目には注目を集めたいからやっているとしか思えない。

実際には、こうした煽り気味の口調は池田先生のお家芸とでも言うべきものであって、普段の池田先生のネタエントリーとまったく同じ雰囲気を漂わせているから、よく訓練されたはてなーであれば落ち着いて対処できるものであるが、発言当時の緊迫した雰囲気のなか、上記のような些か過激な発言が、池田先生の物言いに対する耐性のない人の目にまで触れてしまい、いらぬ混乱を招いたのではないかといういらぬ心配は捨てきれない。

次のように言うことが出来るだろう。この人は煽りが板につきすぎて、もはや煽らずには喋れないのだと。

我々はブックマーカーとして、アルファブロガーが自らが作り上げたキャラに飲まれるのを何度となく見てきた。これはまさにPV*3ジャンキーたる憐れなアルファブロガーの哀しい末路なのである。


次の発言の検証に移ろう。

「原子炉建屋かタービン建屋かわからない」という不自然な発表は、原子炉が「爆発」したと思われるとパニックになるのでごまかして時間を稼ぎ、ホウ素などの措置とワンセットで発表するためだろう。こんな大事なときに嘘をつくことが国民の信頼を失うことに気づかない役人の浅知恵。
2011-03-12 21:13:35

Twitter

普通の人は、原子炉建屋かタービン建屋かの区別に固執したりしないだろうから、特に不自然な発表だとは私は思わなかった。むしろ、役人を浅知恵とまで罵る姿勢こそ不自然で、更には「原子炉が『爆発』したと思われるとパニックになる」という、あたかも本当は原子炉が爆発したんだよとでも言いたげな言い回しも無駄に不安を煽るものとしか言いようがなく、本人にその意図がなく無意識にやっているとしたら、完全に病気としか言いようがない。

これについてもご本人が指摘するとおり、実際に爆発したのは原子炉自体ではなく建屋*4だったわけだが、世の関心はまさにこの点、即ち原子炉自体が破損したのか、外側の建屋が破損しただけかという点だったのであり、このタイミングで突然「原子炉建屋かタービン建屋か」に固執するのは、難癖をつけたいだけではないのかという疑念が拭い去れない。

大体、「原子炉が『爆発』したと思われるとパニックになる」のは、ジョセフ・ジョースターの言葉を借りれば「コーラを飲むとゲップが出るということと同じくらい確実」なことであるから、「原子炉が『爆発』したと思われる」ことをできるだけ避けるのは当然の措置なのであって、浅知恵などと揶揄される必然性がまったく不明である。

この発言についても、根底にあるのはやはりPVへの渇望だろう。役人をこき下ろして自らの権威付けを行えば読者が増えるという構図を無意識のうちに実行している可能性は否定できない。


さあ、極めつけは以下のツイートだ。

きのうは33万PV。aicezukiを上回る私のブログの最高記録。疲れたので、もう寝ます。
2011-03-13 00:08:40

Twitter

33万PV/日というのは確かに桁違いで、同じブロガーとして、つい自慢したくなる気持ちもわかる一方、こんなときに自慢しても読者の心証を損ねるだけで、百害あって一利ないことは誰の目にも明らかであるにもかかわらず、このようについ無意識にPVを自慢してしまっているのは、まさにジャンキーのジャンキーたる由縁だ。

「疲れた」などと、まるで市民のために戦い抜いたかのような言い草だが、実際はテレビを見ながら思いつきをつぶやいていただけで、うちの息子(5歳)と大差ない。

うちの息子もテレビから緊迫感が伝わったのか、いつもよりはやい時間にリビングで就寝してしまったが、要するにそれとまったく同じであり、人間年を取ると幼児に退行するという俗説をさりげなく裏付けているのは、本件で唯一と言っていい微笑ましいポイントだろう。

正真正銘のカス

そうはいっても池田先生は、普通の人よりも原発について詳しかったのは確かであって、そもそものところにあったのは恐らくその知識を活かそうという正義の動機であり、煽ってしまったのは、いつもの癖でついアクセルを踏み過ぎてしまっただけであることは、我々はてなーにとっては自明であるが、以下の人物は純粋な目立ちたがりだと断言してよいだろう。

Gucci Post- ブログ記者によるオンライン新聞 グッチーポスト -

もう明確に「第二のチェルノブイリ」などと断言しており、完全にアウト。発言の不用意さを指摘されると、政府関係者なども自分のブログを見ているから、あなた方のコメントは日本の役に立っているなどとわけのわからない詭弁を弄すあたり、もしかすると本人が一番パニックに陥っているのかもしれない。

ただ、こいつは、むかし植草教授が逮捕されたときに植草教授の友達だなどとホラを吹いて、あることないことでっち上げ、注目を集めた人物だそうで、さらにその前は、ライブドアショックのときもおかしな陰謀論のようなものを吹聴して回っていた急先鋒のような人物なので、こちらは正真正銘のカスであると断言していいように思える。

*1:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85:title=スリーマイル島原子力発電所事故]。1979年3月28日、アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州スリーマイル島原子力発電所で発生した重大な原子力事故。

*2:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E6%96%99%E6%A3%92:title=核燃料をセラミックに焼き固められた燃料ペレットを燃料被覆管に封入して、端栓で気密にしたもの]

*3:ページヴュー。ウェブサイトの閲覧数。

*4:建屋の中に原子炉が入っており、さらにその中に炉心があり、燃料棒が入っているという整理。

AKBバブルの終焉

去年の晦日に書いた「AKB48に学ぶ証券化の基礎技術とCDO48」というエントリーは、ブックマーク数こそ然程多くなかったが、ツイッターではわりと好評で、結果的にアクセスはそこそこ多かった。そこで私が書いたことは、AKB48というモデルが数年前に世界の金融業界を狂乱させた証券化の仕組みと"いかに類似しているか"ということであり、このモデルにはまだ素晴らしい金儲けのための"伸びしろ"があるだろうという話だった。揶揄するニュアンスが全くなかったかと言うとそんなことはないが、基本的にはAKB48をポジティブに評価していた。ところが、その後の関連ニュースなどを見ていると 、この評価ははやくも撤回しなくてはならないようだ。

結論から言うと、前田敦子を変なドラマに出すくらいならまだしも、板野友美をソロデビューさせた時点でAKB48は終わったと思う。

隠匿したはずの個にわざわざフィーチャーするという奇行

先日のエントリーでは、AKB48の大きな特徴として個々人よりも総体としての雰囲気が優っていることをあげ、ポートフォリオ理論や大数の法則などの何となくそれっぽい概念を前面に出して投資家の脳を麻痺させ、個別銘柄のリスクを隠匿する証券化の基礎技術を例示することで、解説した。以下は前回エントリーの一部である。

若い女の子の集団が醸す独特のキャピキャピした雰囲気は、オヤジの脳を麻痺させる。これは、個体を取り出せば普通にひとりの人間でも、集団になると抽象的な概念として認識されるからで、要するにオヤジは<若い女の子>という概念に目がないからだ。
個別の女の子については当然人によって好みが分かれようが、<若い女の子>という概念であれば話は別で、世の男性の大半はそれが好きである。AKB48という概念も然りで、あれだけたくさんいると個別に顔と名前を一致させていく作業は常人にとって不可能に近く、総体としてのなんとなくの雰囲気で捉えてしまいがちだ。

AKB48に学ぶ証券化の基礎技術とCDO48 - よそ行きの妄想

つまり、あの集団から個を取りだしたら何の取り柄もないことがばれるだけに決まっているのだ。もともと大した取り柄もないから集団にして誤魔化していたのに、集団で人気が出ると個人でもいけるのではないかと勘違いしてしまう愚かしさには空いた口が塞がらない。

これはつまり、投資銀行サブプライム住宅ローン債権を加工して販売してもらっていた住宅ローン会社が、投資銀行の経済的成功を目の当たりにした途端に色目を出し、何を勘違いしたのか自ら個別のサブプライム住宅ローン債権を、直接機関投資家に売り込みにいくようなもので、門前払いされることは火を見るより明らかである。売り込みを受けた機関投資家が多少賢明であれば、住宅ローン会社から持ち込まれた債権を一瞥してその信用状態の低さに気づき、こんなものを加工した商品を今まで喜んで買っていたのかと驚き、二度とサブプライムローン証券化商品は買わなくなるだろう。

いま、芸能事務書は最新の顔面加工技術を駆使して、ぎりぎりのところで"商品"の価値を偽装しているが、ネットでは以下のような写真が出回っているわけで、一度点いた疑いの火はなかなか消えないわけである。

AKB48の板野友美さんのアゴがヤバイ:ハムスター速報

ファンを愚弄し搾取を暴露する愚策

私が先日のエントリーでもうひとつの大きな特徴としてあげたのが、キャバクラさながらのランク付けシステムである。

AKB48のメンバーたちは、総選挙なるシステムによってランク付けされる。総選挙において投票するのは無論彼女らのファンであり、そして投票用紙は有料である。シングルCDを1枚買うと1票が付与される仕組みだ。この仕組みのもと、ファンたちは血眼になってCDを買い漁り、お気に入りのメンバーに投票を行う。であるから、AKB48のランクはつまり、ファンからの貢ぎ物の量によって決まるということに他ならない。一番貢がせたやつが勝ちなのだ。
世の中に貨幣ほど客観的な尺度はなく、ファンからの貢ぎ物によってつくられたランクは客観的かつ重要な意味を持つことになる。そうしたランクにおいてナンバー1になることが特別な意味を持つことは論を俟たない。

AKB48に学ぶ証券化の基礎技術とCDO48 - よそ行きの妄想

要するに私が言いたいのは、じゃあ大島優子って何だったのという話である。大島優子は言わずと知れた2010年総選挙のナンバーワンだ。私が初めて大島優子をテレビで見たのは、2010年の総選挙の結果が発表されたときだったが、この何とも言えない微妙な人がトップアイドルになれるのかと、AKB48の凄まじいAKB48に学ぶ証券化の基礎技術とCDO48 - よそ行きの妄想アイドルロンダリングの力に恐れおののいたものだ。

他方、前田敦子は2009年1位で2010年は2位だからまだいいとしても、板野友美は2009年は7位、2010年でようやく4位だ。仮面ライダーダブルでの女子高生コスが幼子を持つ世のオヤジ共のハートを掴んだ*1か何かは知らないが、上位3位をすっ飛ばして4位がソロデビューするというのは事務所の力学という大人の事情以外の何物でもなく、せっせと上位メンバーに貢いだファンからすれば実に面白くないことこのうえなかろう。

まるで証券化商品の原債権がどれだけゴミのようなものであっても一番優先して弁済がなされるトランシェ(階層)ということになると何故かAAA級のやたら高い格付けがついてしまうように、どんな女子でも100人かそこらかき集めて総選挙で”ナンバーワン”を創れば、なんとなく可愛いような気がしてきて、いつの間にかアイドルが誕生してしまうというのが、AKB48の本質の一部だった。AKB48SKE48NMB48の売れないメンバーを寄せ集めてCDO48を創ればよい、CDO48でもナンバーワンはナンバーワンなのだという話をしたが、これも当然総選挙の絶対性さえ保持されていればの話である。

ところがAKB48の関係者がやっていることはこれと全く逆で、折角AAA格がついて投資家が喜んで買おうとしているその債権を、その投資家の目の前で全力でショートしてみせるような所業を平気でやってのけている。詐欺が露呈するどころの騒ぎではない。

これでは、総選挙にはヲタからカネを巻き上げるカツアゲ以上の意味は何もないと公言しているようなものではないか。

AKBの行く末は…

AKB48関係者はおそらく、アイドルは個で売るというレガシーなモデルから脱却できておらず、AKB48を売れっ子アイドルの公開オークションか何かと思っているのではないだろうか。もしくはやつらを全員ソロデビューさせれば儲けが48倍になる的な幼稚な妄想に捉われている可能性も否定できない。

図らずしもAKB関連の詐欺事件は増加しており、世の中が熱狂状態にあることを示している。熱狂状態の特徴は、必ず覚めるときがくるということだ。熱狂が終わったときに持続可能なモデルが出来ていないと、単にバブルが崩壊したという話だけで、後には何も残らない。

AKB48はあくまで、AKB48という集団でブランディングされるべきだと私は主張したい。金融以外の例を出すと、例えば宝塚のように。個人で売れるのは、卒業後でいい。元AKBナンバーワンと触れ込めば、城咲 仁よりは多少箔が付くだろう。

*1:一部経験談を含む。

転売屋の利益は何のコストか

先日、転売屋についてのエントリーを書いたところ、割と少なくない反応が寄せられたわけだが、なかでも比較的多かったのが「転売屋が巣食っているのは『限定品』などの供給量が変わらない市場だ」という指摘だ。

そういう指摘をする人が何を言いたいのかはイマイチ不明だが、供給量が変わらない市場の方が製品価格の変動要因が少ないから、転売屋にとってリスクが少ないのは明らかであり、そうした市場に「転売」の機会が多いのは間違いのない事実だろう。

ということで、今日は限定品市場に限って、転売屋の行動が市場に及ぼす影響について考えてみることにした。

消費者余剰と転売屋余剰

前のエントリーのコメント欄に書いた通り、限定品の市場では供給量が変わらないばかりか供給価格も変わらないので、転売屋がいない限りは供給曲線は「点」になる。供給曲線は、転売によってはじめて「点」から「線」になり、市場が均衡する。

ある商品が価格200円で限定100個売り出されたとしよう。需要は旺盛で、価格200円であれば300人くらいがそれを買いたいと思っている。当たり前だが供給100個に対して需要が300個なので、200個不足する。200人は欲しいけど買えないという状況だ。

ここに転売屋があらわれるとどうなるか。転売屋はあらゆる手を使って200円で商品を買い漁り、これを高値で転売する。需要が100人まで減少する価格が400円だったとすると、転売屋介在後の市場価格は400円まで吊り上がる。400円以上出してでもその商品を買いたいと思う人(100人)だけが残り、あとの人は商品購入を諦めることになる。

ここで注目したいのが消費者余剰だ。消費者余剰は、「取引から消費者が得る便益」のことで、消費者が支払ってもよいと考える価格から実際の取引価格を引いたものだ。

転売屋があらわれる前の市場では、商品を購入できなかった人には大きな不満が溜まる一方で、200円で商品を購入することができた人は大きな便益を得る。

転売屋があらわれると価格は400円に吊り上るから、その分消費者余剰は減り、減った分は転売屋の利益、即ち転売屋余剰となる。

ここまでの話を図にすると以下の通り。

  • 転売屋があらわれる前の限定品市場

  • 転売屋が介在した後の限定品市場

転売屋余剰とは何のコストか

転売屋があらわれる前の市場は、一見消費者余剰こそ大きいもののそもそも供給量が不足しており、誰が商品を手にすることが出来るかは純粋な早い者勝ちという、動物的な秩序が支配する市場である。

転売屋が介在した後の市場は、消費者余剰は小さくなるが、その商品に高い価格を出しても構わないと思っている人から順に便益を得ることが出来るという、極めて資本主義的な市場である。

別にどちらがいいとは言わないが、ここでの転売屋は市場に資本主義的な秩序を持たせるためのコストと言えるだろう。動物的な市場で便益を得ていた消費者からすれば実に余計なコストだということになろうが、まあ立場によるのだろうなと思う次第。

参考

上記は大学1年性で習う程度の基礎的なミクロ経済学だが、マンキューの入門経済学はこのレベルの議論を、実にわかりやすく整理している。いくつかのストーリーを軸に据えることで、単純に読み物としても面白い構成になってる。例えば上記は「通常、市場は経済活動を組織する良策である」という基本ストーリーの一環(上記は不完全競争なので例外的扱いにはなろうが)として語ることができるだろう。

インターネットによって仲介業者が滅ぶという幻想

情報通信技術の発達、とりわけインターネットの普及によっていわゆる仲介業者が不要となり、それにより消費者と生産者の便益が劇的に向上するとする議論が、世の中には意外と多い(印象)。

直接金融市場における調達コスト

こうしたストーリーの大部分が印象と先入観に基づくものに過ぎないというのは、金融市場を見ればわかる。

例えば地方の中小企業が設備投資資金を調達しようとした場合、普通、債券を発行して個人投資家に直接販売するようなマネはせず、間接金融業者たる銀行から借り入れを行う。理由は、直接販売すると非常にコストがかかるからだ。

企業が債券を発行して投資家に販売することで市場から直接資金を調達する場合、当然のことながら、企業は投資家に対して債券の安全性と利回りのバランスについてさまざまな角度から入念な説明を行わなければならない。これはいわゆる金融商品取引法の問題以前に、ものを売るときの大原則として。

自社が直面している様々なリスクの内容について、素人同然の個人投資家多数に説明する場合と、プロである銀行に説明する場合、どちらが発行会社にとってのコストが高くつくかは自明であろう。

更に言えば、単純にコストさえかければ個人投資家の理解を得られるならば状況としてはマシで、多くの場合、中小企業のような比較的リスクの高い会社は、説明にどれほど時間を費やしたとしても個人投資家に正確なリスクを伝えることはできない。問題は情報の量や質ではなくて、投資家側のリテラシーだからだ。企業は、自社の情報を開示することはできても、投資家を教育するようなことは普通しないし、できないだろう。

一般に個人投資家などは、会社の財務状態などよりもむしろ、その会社の知名度や第三者である専門家の意見を重視する傾向があるから、ある程度広告宣伝を行っていて知名度が高い消費材などの販売を行っている会社で、それなりの格付けがついているような会社は、資金を直接市場から調達しやすい*1

ここまでの議論を図にすると、以下の通り。

  • 直接金融市場での調達

  • 金融業者を介した調達

完全競争市場では格差が固定化する

さて、上記の議論は別に金融市場に限った話では全くなく、債券の発行会社を商品やサービスの売り手、投資家を買い手や消費者に置き換えることで、基本的にありとあらゆる市場に当てはめることができ、これによって非常にシンプルな結論を導くことができる。即ち、仲介業者を排した直接的な市場では、知名度などの単純な指標によって売り手の優位性が固定化するということだ。

そしてこの傾向は、販売される製品やサービスが複雑なものであればあるほど強まる。

例えば、労働市場について考えてみよう。スキルが高く優秀な高額所得者であれば、転職エージェントなどに頼らずとも、SNSなどのネット媒体でも何でもいいが、ともかく何らかの知り合いなどを通じて少なくないお誘いを受けることができようが、期間工や派遣社員を直接市場から一本釣りする会社はなく、そうした職を求める人にとっては、エージェントによる推挙は重要である。

仲介業者を排した市場は、経済全体からみても全く効率的とは言えない。一部の富める人のみが、市場からさらに資本を集めることができるような状況になると、その市場に新規参入した会社や個人が資本を集めることができず、格差は固定化し、経済の新陳代謝は途絶える。一部の"勝ち組"もやがて衰え、生産性の低下に見舞われ、市場からの退出を迫られることになるが、そのときに"次"が育っていないと、経済は劇的に停滞することになる。

これはまるで日本の現状のようで、日本に不足していたのは資本を効率的に配分することのできる仲介業者だったのかもしれない*2

インターネットの爆発的な普及によって、実際にどのような企業が成功を収めたか考えてみて欲しい。グーグル(アドセンス)は広告に関しての、アマゾンは書籍などの様々な商品に関しての仲介業者に他ならない。

モノやカネをただ右から左に動かすだけで何も生み出さないなどとして、仲介業者を過剰に軽視する風潮が日本にはあるやに感じるが、そうした風潮が今日の日本を長期停滞に至らしめている可能性もないとは言えない。

*1:例えばソフトバンクのホークス債など。

*2:ちなみに、エージェンシーコストについて知らないわけでも忘れてるわけでもないが、エージェンシーコストを補って余りある価値をエージェントが提供している可能性はあると考えている。

茂木センセーはちょっと飛ばし過ぎじゃないのか

テレビでも引っ張りダコの偉い脳科学者であられる茂木健一郎センセーはtwitterでも大人気で、19万人を超えるフォロワーを擁する茂木センセーがひとこと呟けば、favstarは乱れ飛び、多段RTは大地の隅々まで響き渡る勢いである。

人気がおありなのは誠に結構なことであると思うが、どうにも口を挟みたくなるような多少過激な発言も散見される。しばしば小声で突っ込んでみたりもしてるのだが、今日はそれをまとめてみようと思う。

年齢制限は差別か

まずは企業の採用活動に対するこちらのtweetから。

学生は大学にとって顧客だが、企業にとっては使用人であるから、「同じこと」であるはずがない。大学と企業が、学生に対してそれぞれ異なるスタンスをとる最大の理由は、大学は学生から授業料をもらう立場であるのに対して、企業は学生を雇用し、賃金を払う立場にある点である。

これはおそらく、いわゆる年齢差別の話をしたいのだろうと思うが、この議論自体、「どうして気付かないのかねぇ」などと恰も当然のことであるかのように振る舞えるほどに強度のある議論ではない。なぜ企業が求める人材を年齢によって定義してはいけないのか、その答えは実に曖昧だ。

差別とは、「偏見や先入観をもとに、合理的な理由なく、他人に不利益を強要すること」を指すと言えるだろう。確かに、職に就けないと給与が貰えず生活が成り立たないから、就職を断られることはその人にとって不利益である。ただ、その際の企業側の決断が非合理かどうかと言う点には大いに議論の余地がある。企業が人の採用に際して考慮すべき合理性というのは、その人が、将来、使用人として、会社組織にどの程度貢献できるかに基づく。お互いに納得できる賃金を支払って、さらに大きな見返りがあるだろうと判断した時のみ、企業はその人を採用する。

お察しの通り、この判断は将来に関するものだから、本質的には占いと一緒である。統計的なデータなどからもっともらしい傾向を抽出して、それが普遍的な傾向なのだと思い込むことは出来るが、それが当たる保証はない。

年齢による採用判断が非合理だとして、では何が合理なのか。合理と非合理の線はどこで引くのか。これは解のある問題ではない。

年齢差別に関する議論は使用人にとっては心地が良いもので、庶民の耳目を集めるには都合がよかろうが、企業の判断を徒に縛ることが、本当に効率的で万人にとって良い結果を生むのかは、実に怪しいと私は思う。

一般的には、可能な限り規制を撤廃し市場を効率的であらしめることが、社会全体の厚生を最大化するための近道である。

連帯保証制度は純粋な悪か

センセーの義憤の矛先は連帯保証人制度にも向かう。

そもそも、民法から連帯保証に関連する条項を削除したところで、相対契約における連帯保証の定めを禁止することには一切つながらないから、微妙に何が言いたいのかよくわからないが、きっと連帯保証は悪習だという類の話だと想像する。

先般、貸金業法が改正され、借り入れだけでなく個人が保証できる金額も一定の額までに制限された。銀行による貸付は当該規制の対象ではないので、銀行から事業資金を借り入れている中小企業の経営者の多くは、引き続き多額の連帯保証債務を負わされてはいるが、方向性としてはこうした業界に対する規制は強化されていっている。

第十三条の二  貸金業者は、貸付けの契約*1を締結しようとする場合において、前条第一項の規定による調査により、当該貸付けの契約が個人過剰貸付契約*2その他顧客等の返済能力を超える貸付けの契約と認められるときは、当該貸付けの契約を締結してはならない。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S58/S58HO032.html

そういう意味で、茂木センセーのみならず連帯保証に批判的な意見というのは割と広範に見受けられるものなわけだが、こうした意見について私が常々思うのは、じゃあその分のリスクは誰が負担するのという話である。

なんとなく銀行が負えと主張する人が多そうだが、当然ながら銀行には自らが負うリスクを自らが判断する権利がある。もし本当に連帯保証が禁止されたら、銀行は提示する金利を高くするか、もしくはそもそも貸さないという判断をするだけである。

それにより、貧しい人が無理な借金を負わされることがなくなってメデタシメデタシとなればよいが、おそらくそうはならず、銀行は貧しい人たちにもっと金を貸すべきだという議論が起こる。絶対起こる。実際、アメリカにおけるサブプライム層への過剰貸付の問題はそうやって始まったのだ。

ビル・クリントン大統領によって住宅都市開発相の次官補に抜擢されたロバータ・アクテンバーグが、蓄えのない人々に銀行が融資をしない主な要因は人種差別だとトンデモな主張をし、サブプライム層に対しても無理矢理融資をさせたから、リスクを取りきれなくなった銀行が、証券化によってリスクをロンダリングし、世界中の投資家に売り抜けるという仕組みを開発したのだ。それが最終的にどういった結果につながったか、まだ記憶に新しいことと思う。

これはアメリカではこういうことがあったという話で、連帯保証人制度を禁止すると必ずこうなるという話ではないが、似たような事態に陥る可能性は決して無視できるものではない。こういった可能性を考えずに、ただ庶民の味方のふりをして連帯保証人制度廃止を唱えるのは、浅はかである。

茂木センセーは、こんなことも言っている。

連帯保証させられている企業経営者が真剣に肯くのは当然で、センセーは、自分に講演を依頼してくれた銀行の人たちが苦笑いしていたことの方をもっと真剣にとらえた方がいい。

マスコミに担がれながらその堕落を批判する

茂木センセーの怒りはとどまるところを知らず、ついには自らを持ち上げ、その権威の礎となったはずのテレビ局にも向かう。

その堕落したマスコミに担ぎ上げられているのが、他ならぬ茂木センセーご自身なのであって、マスコミを批判する茂木センセーはまるで自分の足を食うタコのようだ。その堕落したマスコミにもてはやされている自分とは一体何なのか、マスコミにどのような便益をもたらす存在なのか、一度立ち止まってゆっくりお考えになられてみてはどうなのだろうか。

上で例にあげたような、一面的な事実に基づいた浅はかで短絡的な主張を垂れ流して衆目を集め、迷える子羊たちを煽動する茂木センセーの姿は、ご自身が批判する堕落したマスコミの姿にそっくりだと私は思うが。

*1:「貸付けの契約」とは、貸付けに係る契約又は当該契約に係る保証契約をいう。

*2:「個人過剰貸付契約」とは、個人顧客を相手方とする貸付けに係る契約で、当該貸付けに係る契約を締結することにより、当該個人顧客に係る個人顧客合算額が当該個人顧客に係る基準額(その年間の給与及びこれに類する定期的な収入の金額として内閣府令で定めるものを合算した額に三分の一を乗じて得た額をいう。)を超えることとなるものをいう。

価格メカニズムと転売屋の功罪

転売屋という言葉は、普通に一般でも使うと思うが、ネットで転売屋と言うと、基本的には人気商品を買い漁り、ヤフオクやAmazonマーケットプレイスなどの個人間取引市場において定価の数倍という高値で転売することを生業としている人たちを指すことが多い。より侮蔑の念を込めて転売厨と呼ばれることも少なくない。

嫌われ者の転売屋

転売屋は、ネットでは大の嫌われ者だ。
先日、珍しく転売屋批判を単なる感情論だと切って捨てんとする猛者が現れたようだったが、本人の論自体が根拠のないただの感情論だったので、むしろ返り討ちにあっていた。
転売屋disはただの感情論 - Togetter

かくいう私も、昨年末、こどものクリスマスプレゼントにと思っていた仮面ライダーオーズの変身ベルトがどこに行っても売り切れで買えず、仕方なしにAmazonマーケットプレイスで購入したら定価の倍くらい払わされ、非常に悔しい思いをした経験があるので、転売屋を目の敵にする人の気持ちはわからないでもない。

ただ、やはりネットの転売批判は行き過ぎているようにも思うし、転売という行為が需給に対してどういう影響を及ぼすのかというのもなかなか興味深いので、ちょっと考えてみた。

需要と供給

そもそも、転売のチャンスが生じるのは供給量よりも需要量が多いときであって、それがどういうときかと言うと、販売価格が均衡価格を下回っているときである。

均衡価格において、メーカーの供給に対するインセンティブと、消費者の購入に対するインセンティブがバランスし、需要量と供給量が一致する。以下の図で言うと、価格が300円のとき、需要量と供給量が一致するが、それ以下だと供給が不足する。つまり、買いたくても変えない人が生まれることになる。

転売需要

販売価格が均衡価格よりも安く、それ故に供給量が不足すると、その商品を買い集め、どうしても欲しがる人に市場よりも高い値段で転売するという行動が合理性を持つことになる。これが転売屋だ。

そして、転売の需要は、販売価格が割安であればあるほど強くなる。商品の割安さこそが、転売屋の収益の源泉だからだ。よって、転売屋の需要曲線は、均衡価格よりも下で発生し、価格が下がるほど傾きが緩くなる(需要の価格弾力性が高くなる)。

転売需要が加わることによって需要曲線は、以下の図のように右方向にシフトする。つまり、需要が増える。そして需要曲線がシフトした分だけ、さらに商品が不足する。転売屋のせいで、買いたい人が買えなくなっているという批判は、まさにこの状況を指してのことだと思われる。

価格メカニズムに対する作用

経済学の教科書によれば、販売価格は「見えざる手」によって導かれるように均衡価格に収束し、結果的に供給量と需要量は自然と一致する。

何故そんなことが起こり得るかというと、需要が供給を上回ると価格が上昇し、価格の上昇がメーカーにとって供給量を増やすインセンティブとなるからだ。それによって供給量が増え、需給のギャップは徐々に縮まり、最終的にはそれ以上つくっても欲しがる人はいないという点で市場は均衡する。

このように書くと、転売屋はまるで「見えざる手」の一部か何かであるような印象を受けるかもしれないが、よくよく考えると、少し「見えざる手」とは勝手が違うことに気づく。

転売屋の利益は転売屋の利益であって、メーカーには一切還元されないのだから、転売マーケットでいくら価格があがろうが、メーカーにとって商品を増産するインセンティブにはならない。安い値段(上の図で言う200円)でも売れるのは売れるのだから増産すれば良いと思う人もいようが、メーカーにとってすれば限りある資本を利益率の低い商品の製造のために投下すると機会費用が大きいから、やはり基本的には商品の価格が上がらないと、増産はしづらいと考えられる。

商品が増産されない中で、無理矢理に転売によって市場を均衡させると、以下の図のようになる。本来の均衡点よりも更に高い位置で市場が均衡しているのがポイントで、下の例で言うともともとの価格の2倍、本来の均衡価格の1.3倍もの価格で消費者は買わされていることになる。これでは消費者から不満が出るのも当然だ。

より効率的な市場へ

この忌々しい転売利益を消滅させるにはどうすればよいか。答えは非常に簡単で、メーカーがこの利益を取り込めばよいだけである。上で述べた通り、メーカーにとって利益が増えることは商品を増産するインセンティブになるから、メーカーが転売屋を子会社などにしてしまうことができれば、効率的な市場の実現への道が開かれることになる。

だったらはじめから転売屋などいなければいいと思う人が多いかもしれないが、それは誤りだ。メーカーは、もともと短期のうちに価格を変動させることはできないからだ。経済学の需給均衡のモデルは長期のモデルなのだ。

インターネットオークションなどの消費者の需要量が即座に価格に反映されるインフラが構築され、そうしたインフラをフルに活用した販売手法が確立され、そしてその手法をメーカーが獲得し、販売状況を即座に生産に反映することができるようになれば、市場は過去に例のない速度で均衡に到達し、メーカー及び消費者双方の厚生は劇的に改善するだろう。

だとしたら、いま、転売屋は新しいインフラを活用した販売手法の確立のために一役買っているという見方もできるのかもしれない。

これは、きちんとワークすればイメージ的にはユニクロのSPAモデルに近い。転売屋の中からユニクロのような大企業に化ける先が出てきたりしたら、面白いと思う。

参考

市場とは何か

ザ・クオンツ  世界経済を破壊した天才たち
ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たち」は、証券市場で莫大な財産を築いた天才数学者(クオンツ)たちの物語だが、それは市場そのものの物語と言っても過言ではないものに思えた。

ザ・トゥルース

市場とはなにか。それは、真実の探求であると言える。

「ザ・トゥルース」とは、市場がどのような動きをするのかという普遍的な謎を解明することであり、数学を通じてしか解明できないものだった。市場のあいまいな動きを研究することによって導き出されるはずのザ・トゥルースは、何十億もの利益をもたらすためのカギだった。クオンツたちは世界中の金融市場にアクセスできるような高性能コンピューターを導入し、ザ・トゥルースを探求することによって莫大な財産を築こうとした。(中略)
クオンツは、とらえどころのないこのザ・トゥルースに名前をつけた。それは、秘教めいた魔法の方程式を追い求めるにふさわしく、「アルファ」とよばれた。
ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たち

大数の法則と将来の予測

エドワード・ソープは、ウォールストリートで大金を稼いだ最初の数学者で、いわゆるクオンツの創始者であるといっても過言ではない人物だ。

数学者としてのエドワード・ソープが最初に研究の対処にしたのは、株式市場ではなくカジノのブラックジャックだったという。彼は、数学とコンピューターによって、自分がディーラーに対して確率的に有利になる状況を創り出すためのモデルを作成し、実際にラスヴェガスで大勝を収めた。「ディーラーをやっつけろ! 」は、当時(1960年代)エドワード・ソープによって執筆、公表され大きな話題となった。

エドワード・ソープのモデルは、確率論のもっとも基礎的な理論である大数の法則に基づくもので、確率的に有利な状況を創り出すことができれば、数回のゲームでは負けることがあっても、回数を重ねていけば必ずトップに立てるとする考え方だった。これから100回ゲームをした場合に、自分が何回くらい勝てるのかを把握することができるという意味で、学術が亀の甲羅を使った占いのような魔術味を帯びる瞬間であると言える。

ランダム・ウォーク理論とオプション価格

勝ちすぎてカジノを半ば出入り禁止になったエドワード・ソープが、次に目を付けたのが株式市場のオプション取引だった。

オプションというのは、ある株式を、将来、買ったり売ったりできる権利のことで、その権利自体が市場で取引されていた。例えはA社の株価がいま100円であるとする。これが将来200円に上がるだろうと予測した人が、A社株を150円で買うことができる権利を10円(=オプション価格)で誰かから買っておく。予想が的中して株価が200円になったときに権利を行使して株式を取得すれば、オプション価格10円と株式の取得価格150円の合計と、権利行使時の株式時価である200円の差額である40円が儲けになる。万が一当てが外れて株価が暴落して7円くらいになってしまったとしても、損失はオプション料である10円だけで済む。

エドワード・ソープは、このオプション価格についての適正な値を合理的に算出するモデルを作成した。今でいうブラック・ショールズモデルに近いものだったそうだ。このモデルは、株価は完全にランダムであり、上がる確率と下がる確率は完全に50対50で予測することはできないとする理論(=ランダム・ウォーク理論)に基づく。相場を予想したい人にとって、相場がまったくのランダムであるという結論は一見絶望的なもののような気がするかもしれないが、完全にランダムであればそれはそれでモデル化することができる。いわゆるベルカーブだ。

上述の例で言えば、A社の株式が特定の期間内に200円をつける可能性は、将来の値動きがランダムであればこそ、定量的に把握できることになる。市場が評価するオプション価格が理論値を下回るものであれば、オプションを買えばいいし、逆に市場の評価が理論値より高ければオプションを売ればいい。数回の取引では負けるかもしれい。ただそれを数百回数千回と続けていけば、理論価格と市場価格の差額が儲けになるはずと考えることができる。

アービトラージ

例えばオプションを空売りすると、株価が急上昇した際には理論上無限に損失が拡大していくことになり、非常に高いリスクを負担することになるので、そのリスクをヘッジする目的で開発された技術がアービトラージだ。

具体的には、A社株式を買うためのオプションを空売りすると同時に、A社株式を購入する。そうすることによって、A社株式が急上昇した場合は購入したA社株式を売却することによってオプションの損失を補てんすればよく、オプションのリスクをヘッジすることができる。

エドワード・ソープは、オプションのリスクをヘッジするために必要な株式のポジションを計算するモデルも作成した。今日、デルタ・ヘッジと呼ばれる手法である。

スタティスティカル・アービトラージ

上記の仕組みを応用した、スタティスティカル・アービトラージ(通称「スタット・アーブ」)と呼ばれるトレーディング手法も開発された。以下引用。

GMの株価が通常10ドル、フォードが5ドルだったとしよう。GMに大量の買い注文が入ると、株価は一時的に10ドル50セントに上がる。一方フォードの方は5ドルのままだ。この場合、2つの株価の「スプレッド」は広がった(ワイドニングした)といえる。
ヒストリカルなパターンをたどり、かつチータのようなスピードで動くことができれば、こうした一時的な急上昇や急落に乗じて儲けを得られる
ザ・クオンツ 世界経済を破壊した天才たち

要するに、ヒストリカルなスプレッドを分析し、それが将来的にも保たれるとする立場から、スプレッドが広がったり縮んだりした場合に、そのスプレッドがもとに戻る方に賭ける取引手法である。

クオンツの発展

上記で紹介したような基本的な手法自体は大きく変わっていないものの、その後商品の複雑性は一層高まり、取引の時間は短縮され、規模は爆発的に拡大していった。

1990年にハーバードの学生寮で株取引をしていたケネス・グリフィンは、エドワード・ソープの教えのもとでシタデル・インベストメントを創業し、その数学的能力を活かして上記のような手法をありとあらゆる市場に応用し、2007年までに200億ドルを超える資産を預かる世界最大のヘッジファンドを築き上げた。

1994年はじめ、ピーター・ミュラーは、モルガン・スタンレー内でPDTというチームを率い、ミダスと名付けられたスタット・アーブを応用した自動トレードシステムを開発し、結果的に何十億ドルという収益を稼ぎ出した。

効率的市場仮説で脚光を浴びたユージン・ファーマの教鞭を受けたクリフ・アスネスは、師の教えに反し、ある期間において大きく上昇又は下落した株がその後も同方向に動き続け、理論価格から大きくかい離する現象(=モメンタム)を精緻に研究し、1994年、28歳の時にゴールドマンサックスでクオンツのチームを立ち上げた。その後自らが立ち上げたヘッジファンド、AQRの総資産は2兆ドルにも達した。

チェスの天才少年として映画のモデルにもなったボアズ・ワインシュタインは、ドイツ銀行の内部に主にCDSなどのクレジット・デリバティブで資産を運用するヘッジファンドを立ち上げ、300億ドルものポジションを売買する世界で最も影響力のあるクレジット・トレーディング・ファンドに育て上げた。


細かな手法は違えど、彼らが賭けていた対象は、要するに市場価格は合理的な水準に収斂するという仮説であり、彼らが行っていた取引は、理性から逸脱した市場の値動きを是正することに他ならない。まるで白血球が体内に侵入した病原菌を除去するように、クオンツのトレーディング・システムは24時間体制で相場を監視し、少しでも非合理な値動き(つまり、収益機会)があればそれを是正し、それによる収益を得ていた。白血球とクオンツのシステムが異なる点は、クオンツは何が正しい状態(=「アルファ」)なのか、未だ手さぐりで探究している段階に過ぎないということくらいだろう。

市場の失敗

順調に「アルファ」に近づいていっているかに見えるクオンツたちだが、その道のりは必ずしも平坦ではない。

「アルファ」の探索の最中にあって、市場は三度大規模な失敗をしている。一度目は1987年のブラックマンデーであり、二度目は1998年のロシア危機、三度目が2008年のサブプライム危機である。そのたびにクオンツたちがつかみかけていた「アルファ」も泡と消えたのだった。

市場が失敗に至る過程においては、三度とも少なからず共通点がある。まず、誰かが「アルファ」の一片をつかみ、大儲けをすると大量の模倣者が表れる。すると各人の利鞘は減少する。ファンドの運用利回りを維持するためには、新しいモデルを開発するか、レバレッジをかける(ポジションをとるときに借り入れを行うこと)かしかないが、新しいモデルをそう簡単に思いつくはずがないので、必然的にレバレッジが高まっていく。レバレッジが極限まで高まったとき、少しでも想定外の値動きがあるとそれに耐えられないファンドが続出し、危機が連鎖していく。

ここで言う想定外の値動きというのは、マンデルブロが言う「ファット・テール」であり、ナシーム・ニコラス・タレブが言う「ブラック・スワン」である。ベルカーブのすそ野に位置するような急激な相場変動というのは、確率論上は銀河の歴史が何百回繰り返してもほとんど起こり得ないと言えるくらいの事象であるが、そういった相場変動は少なくともここ30年強で上述の通り3回も起こっている。これは、市場を動かしているのは結局のところ我々人間であり、人間はときとして感情に支配されてしまい、合理的ではない行動をとるからであると考えることができる。これにレバレッジによって天高く積み上げられたヘッジファンドによる何兆というポジション解消の動きが相まって、想像を絶する市場の崩壊が起こることになる。

歴史は繰り返す

「アルファ」の探求は、いまも続けられている。「アルファ」の探求こそが市場なのだとすれば、ある意味当然のことではあるが。

エドワード・ソープを除く上記の4名は、いずれも一昨年のサブプライム危機後のキチガイじみたボラティリティと枯渇した流動性の中で大きな痛手を蒙り、運用資産の大部分を失っているが、いずれも新たな「アルファ」に基づいたトレーディングシステムの開発に精を出しているそうだ。

同書によれば、いま、ダークプールと呼ばれる非公開の、システム化された取引所外取引環境が浸透しており、そこで莫大な金額の取引が行われているのだそうだ。ダークプールでは「忍者のようなスキルをもったトレーダー」が「危険なまでの超高頻度取引の世界」で活躍しているとのことである。

バフェットの投資哲学とリスクの分類

バフェットからの手紙 ? 「経営者」「起業家」「就職希望者」のバイブルバフェットからの手紙」を読んで、改めてリスクにはいろいろな考え方があるなあと感じたので、リスクの分類について少し考えたところをまとめてみた。

バフェットの投資哲学

知らない人はいないと思うが、ウォーレン・バフェットは米国の著名な投資家であり、世界最大の投資持株会社であるバークシャー・ハサウェイの筆頭株主でありながら同社の会長兼CEOも務める。Wikipediaによれば、バフェットが「1965年にバークシャー・ハサウェイの経営権を握ってから現在までの約45年間に、ダウ平均株価の上昇率が約1400%超だったのに対し、バークシャー・ハサウェイの株価は約82万%超という桁外れの上昇をみせ」たそうで、2007年における個人総資産は「620億ドル(約6兆4360億円)」とのことである。

バフェットの投資哲学はシンプルで、いわゆるバリュー投資と呼ばれる手法がそれだ。バフェットは、それを恩師であるベン・グレアムとデイビッド・ドッドから学んだとしている。

バフェットは、企業の長期的な利益に着目しない単なるバーゲンハント的な短期の取引手法を「しけモク」手法と揶揄し、「ひとつのバスケットにすべての卵を入れてはいけない」ではなく、「ひとつのバスケットにすべての卵を入れてそのバスケットを見張りなさい」と言い、安易な分散投資を否定する。

こうした投資手法は言うほど簡単ではない。リスクの評価について、バフェットは次のように言っているが、これはほとんどセンスと心がけの問題である。

この(投資にあたって投資家が見積もるべき)リスクをコンピューターで正確に数値化するのは不可能ですが、実際役立てられる程度の精度で算出できる場合もあります。この計算にあたっての主な要素は以下の通りです。

  1. 企業の長期的経済的特性を評価できるという確信
  2. 企業の持つ潜在力を生かしきる能力やキャッシュ・フローをうまく利用する能力の両面で、経営者を評価できるという確信
  3. 事業で得た利益を自分たちより優先して株主に還元するという点で信頼が置ける経営者であるという確信
  4. 企業の買付け価格
  5. 予想される税率とインフレ率と、それによる総収益から投資家の購買力である収益が目減りする度合い

これらの要素は、どんなデータベースを用いようが数値化するのは不可能なので、多くのアナリストにとって恐らく耐えがたいほどあいまいな要素に思えるでしょう。でも正確に数値化できないという理由から、これらが重要ではないとはいえず、また絶対計算できないというわけでもありません。これは、わいせつ性を系統立てて説明することはできないという結論に至ったスチュアート最高裁判所判事が、それにもかかわらず「見れば分かる」と強硬に主張したことと共通します。判事と同様に投資家たちも、複雑な方程式や過去データに頼ることなく、正確ではなくとも役立てられるレベルで投資対象が個々に抱えるリスクを「見る」ことができるのです。
「バフェットからの手紙」p.138 第二章 コーポレート・ファイナンスと投資

バフェットが推奨する投資手法は、投資家自身がその事業の何たるかを理解していると信じ、かつその経営陣を完全に信頼することのできる企業にまとまった額の投資をするものである。バフェットは人間の知識や経験が疑うべくもなく限定的なものであることを知っており、自信を持てる投資対象がそういくつも存在するものではないことを理解しているが故に、ほとんど理解していないような数多くの企業に投資を分散させることを忌避している。

リスクの分類

上述したようなバフェットのリスクに関する考え方は、現代的な金融理論とはまったく趣を異にするものに思えるため、何がどう違うのか整理すべく、以下のマトリクスをつくってみた。

まず、縦軸はそのリスクの種類を表しており、上に行くほどそのリスクを定量的に把握することが容易であることを意味する。定量的に把握することができるということの意味合いとしてはつまり、その投資対象について統計的に有意なヒストリカルデータが存在するということだ。例えば、さまざまな不動産物件をオリジネートした証券化商品であれば、過去の不動産価格推移に関するヒストリカルデータに基づき、リスクを定量的に計測することができるが、どこそこの何丁目何番地の不動産に投資する場合、その不動産の価格に関するデータは精々過去数回の取引履歴程度のものであり、あまりデータとして有意とは言えない。

普通、個別の銘柄や物件について豊富なヒストリカルデータが存在するということは考えづらいから、対象が分散されている、何らかの業界やジャンル、領域などのマクロ的な動向にベットするような投資の方が、定量的にリスクを把握しやすいと言えるだろう。

次に、横軸はリスクの質を表しており、右に行くほどそのリスクが静的であることを意味する。リスクが静的であるということの意味合いは、例えばある資産が生み出すキャッシュフローが将来に渡って安定的に推移するということである。東京大学の真裏に位置するようなアパートと、辺鄙な山奥にあるようなアパートでは、喩え双方ともに現状においてはすべての部屋が埋まっていようとも、将来に渡って部屋の稼働が安定しているのは間違いなく前者だろう。見込まれる需要がまったく異なるのは誰の目にも明らかだ。

リスクの質を見抜くためには、過去の推移や現状だけに捉われることなく、往々にして投資対象を取り巻く環境やその動向についての分析を要する。

バフェット流バリュー投資とリスク

バフェットが言うのはつまり、上のマトリクスで言うところの右下を目指せということではないだろうか。

一般に、限られた銘柄の株式に集中して投資するのはリスクが高いと考えられているものの、その事業の長期的な特性を深く理解することができ、またその経営者が信頼に足る人物であると判断することができれば、投資におけるリスクは将来に渡って限定できるということである。

他方、投資対象の銘柄を広範に分散すると、リスクの種類としては定量的に把握が可能なものとなるので、つき合いやすくなるかもしれないが、リスクの質は本質的には変わらない。値動きが完全に同一でない限り投資は分散した方がリスクは低くなるに決まっていると考える向きもあろうが、ここで言っているのはリスクが将来にわたって安定的に推移するかどうかという話であって、リスクの高い低いではない。

上のマトリクスに当てはめるかたちで図にすると、以下のとおり。

怖ろしいのは、我々には、リスクを定量的に分析できたことをもって、あたかもそのリスクが将来に渡って安定しているかのように勘違いしてしまう習性があるということだ。最近ではサブプライムローン証券化、一昔前だとジャンクボンドの帝王マイケル・ミルケンの手法のポイントは、1件では投資不適格な対象をたくさん集めることでリスクを定量化し、あたかも安定的な投資商品であるかのように装う点にあった。

結局のところ、バフェットが言っているのは、投資対象に対する深い理解なくして安定的な収益を上げ続けることはできないということであり、それは実際そうなのかもしれないと思う次第である。